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歴史評定・自動板 1





大膳大夫 隆元さん  投稿日:10月11日(土)20時46分18秒
E-mail:
jo6-life@nsknet.or.jp

帰蝶姫 その3

また岐阜,清洲,
那古屋の各城下や津島,熱田門前町などは、安全な反面、顔見知りが多すぎて気
詰まりがする。その点、光秀の知行地ならば身分の秘匿や内密な身辺警備が容易
であろうし、従兄である光秀が面倒を見るなら帰蝶姫も気安かろう。

 知行地の管理人の屋敷内か隣接地に1軒家を借り、輿入れの時から従ってきた
気心の知れた女中1人2人と共に住んでいたのではないか?。信長公からの仕送
りと光秀の庇護、それに当時の大都会・京の都心に近い上に閑静な住環境、洗練
されたシングル・ライフを送るには申し分のない条件である。
 出産と育児を知らない帰蝶姫は、30代半ばという実年齢よりも若々しく、少女
らしさを残したチャーミングな熟女であったと思われる。さすがに株価急上昇の
大々名・織田信長の夫人であることは明らかにできないので、さる御大家の後家
とでも近所には触れ込んでいたのだろう。

 3年後の永禄14年(1571年);将軍義昭が信長公への敵対行動を重ねたため、光
秀は幕臣を辞しており、将軍家から給わった知行地も返しているはずである。同
時に光秀は坂本築城に着手し、1年後に城の形は大概(おおよそ)でき上がったら
しい。これに伴い帰蝶姫も、京の近郊から近江国・滋賀郡にある明智家中の仮宿
舎に移り、元亀4年(1573年);将軍義昭が河内国・若江城に退去して京の都から戦
乱が遠ざかるまで、そのまま坂本城に住んでいたとしても不自然ではない。光秀
をはじめ、母方の親類や同郷の者が明智家中に多かったから、帰蝶姫にとって居
心地は悪くなかっただろう。
 ただし天正10年(1582年);山崎の合戦の翌々日に坂本城が落城しているが、そ
れまで帰蝶姫が坂本城にいたとは思えぬ。元亀4年(1573年)の8月、天正元年と改
元されて以降、帰蝶姫は織田家によって治安が回復した京の市中に移り住んだの
ではないか。少なくとも、その方が某の論旨と矛盾しない。
 そして帰蝶姫が本能寺を定宿とする信長公を訪問する、あるいは信長公の呼び
出しに応じる位のことは何度かあったかも知れぬ。それが目撃され、本能寺で最
期を共にしたとする説の下地になったのであろう。公ご自身は離縁したつもりは
なく、元々人も無げなご性分であらせられる故、政務に差し障りなくば帰蝶姫と
会うことを避けらるるとは思えぬ。ただし少しは照れがあり、ご近習の衆でなく
寺僧を遣わせられ、また周囲にも口止めをお命じになったことが、記録に残らな
かった原因であると想像できぬでもない。




大膳大夫 隆元さん  投稿日:10月11日(土)20時40分09秒
E-mail:
jo6-life@nsknet.or.jp

帰蝶姫 その2

太田牛一の記すところ装
束の出所を近臣すら知らなかったらしいし、帰蝶姫の言葉なればこそ傲慢な信長
公も聞き入れたであろう。また信長公ならば、予め舅殿の出方を彼の姫に質すこ
とを忘れぬに違いあるまい。帰蝶姫とて亭主殿を父に認めさせたい気持ちや、奇
策に長けた蝮の娘として自負や茶目っ気がなかったとは考えられぬ。つまりは悪
戯半分の内助の功じゃ。
 救いは、信長公が帰蝶姫を憎み疎んじたという伝承がないことである。伝承が
ないからと云って証拠とはならぬ、左ありとて、そうでなかったと某は信じたい。
それに安土城が焼け落ちて後、帰蝶姫と思しき女性が何処よりか現れ、剃髪して
庵を結び、そこで没したとする伝承もある。
 憎み疎んじられた女が、亡き亭主の供養に余生を費やすとは思えぬ。彼の尼僧
を帰蝶姫とするならば、信長公を最も理解していた女性として夫の亡骸に等しい
安土城の廃墟に寄り添って余生を全うするは、むしろ自然に思える。何となれば
安土城こそが、若年よりパフォーマンスを続けた信長という表現者の最後にして
最大の作品であり、それを知る女性がいたとすれば帰蝶姫を措いて他にない。信
長公とのセックスレスな関係が、帰蝶姫は純粋な情愛と深い理解を育んでいたと
いうことになる。

 あるいは信長公は夫の務めを折々に果たしていたかも知れぬ。その場合、不幸
にも帰蝶姫は不妊症だったことになる。もし1人でも男児がいれば、別腹とはい
え奇妙丸(信忠)殿や茶筅丸(信雄)殿も相応に愛おしむことも叶うたろうが、子を
為せぬ正室として苦しんだのではあるまいか?。
 正室である以上、側室である吉乃や坂氏の女(むすめ)より後宮の序列は明らか
に上であり、別腹の子らに対しても母として接し得る立場ではある。おそらく気
丈な女性ゆえ、城内を遊び回っていた奇妙丸殿や茶筅丸殿が近くを通れば招じ入
れて可愛がり、内心の寂しさを紛らわしたこともあったろう。とはいえ「お方様」
という子らの呼びかけに、仮そめにも「母」と呼んでくれたなら...と、帰蝶姫の心
の傷は深まるのである。
 しかも吉乃や坂氏の女にすれば、子らが帰蝶の下へ遊びに行くは快きはずなく、
その思いは言葉にせずとも面(おもて)に現れ、子らの足は次第しだいに帰蝶姫か
ら遠のいてゆく。残るは子を持たぬ欠落感と子を為せぬが故の劣等感、信長公と
相愛なればこそ、拠ん所ない切なさは増したであろう。この場合も、帰蝶姫は城
を去らざるを得ない。

 さて帰蝶姫が隠遁するならば、永禄11年(1568年)の晩秋から、京で政務に携わっ
ていた明智光秀の知行地、それも将軍・足利義昭から給わった知行地が最も有望
であろう。この時期、光秀は信長公と将軍家の双方から知行を受けていたとされ
ており、将軍家から給わった知行地は京の近郊にあったに違いない。
 この永禄11年は、六角氏や三好党を駆逐し、上洛を果たし、将軍家とも蜜月期
にあり、信長公にとって希望に満ちた年だった。公を大切に思う帰蝶姫が公の下
を去るタイミングは、危機に陥っていれば心配でもあり去りづらい、やはり栄光
の年であった永禄11年が最も相応しいであろう。
 なお堺は自由都市とは云え、三好党や石山本願寺との関係が取り沙汰されてお
り、帰蝶姫が拉致され人質にされる危険がないとは云えぬ故、信長公が許すまい。
京の市中も、まだ三好党の活動範囲であるから安全ではない。また岐阜,清洲,
那古屋の各城下や津島,熱田




大膳大夫 隆元さん  投稿日:10月11日(土)19時36分09秒
E-mail:
jo6-life@nsknet.or.jp

帰蝶姫

 10/10の電脳フリボーに「帰蝶姫は父(道三)と兄(義龍)を相次いで喪った衝撃
で精神障害を生じ、療養のために堺へ預けられたかも?」という説が、<ロスアン
ゼルスのうつけ者>殿によってベーストされていました。以下は、それに対するレ
スのよーなものです。

 はてさて、この時代の女子が斯くの如くひよわとは、某には思えぬが...。戦陣
に伴われこそせなんだが、戦国期の武家の子女は首実検に備えて討たれし"首"を
洗い清めたり化粧したり、負傷兵の手当をしたり、籠城中は矢弾の製造にあたっ
たりと随分な活躍じゃ。この辺りは「戦国武将」小和田哲男著 中公新書No.637 に
詳しい。肉親の男供が合戦に出て1人2人と討ち死にするは、度々のことじゃ。
人質に送られ、同盟が破れ、串刺しに遭うも珍しゅうはない。
 このように"死"がありふれた時代に親兄弟が相次いで亡くなったからというて、
ノイローゼが長期化したり真性に進行したりする女性が多かったとは思えぬ。失
礼な物云いじゃが、女性は身体はデリケートじゃが精神はバリケードじゃと思う
ぞ。実際、女性は男性に較べて精神障害の発症率が少ない。皆無とは申さぬが、
例外的な少数ではなかったのかのぉ?。

 むしろ信長公の女性関係が原因で、帰蝶姫の意思で亭主殿から遠ざかったと見
る方が無理がないような気が致す。帰蝶姫に子がなかったと伝えられるし、疎遠
になったから子を為せなかったか、あるいは子を為せないことを気に病んで身を
引いたか?、微妙なところじゃ。小野小町の例もある故、性の不一致や性に関わ
る障害が生じた疑いもあるが、そんなことは今さら詮索しようがない。
 因みに信忠殿,信雄殿などを産んだは家臣・生駒家宗が娘;吉乃、実家に戻っ
てきとった後家じゃそうな。美貌という伝承がない故、容姿は十人並みでも大人
の色香があったのじゃろ。帰蝶姫が如何に聡明な美少女であろうとも、付き女中
が笑い絵(春画。武者供が縁起を担いで?戦陣に持参したと云う)を見せつつ男女
の道を教えても、殿御が未熟者なら分が悪い。ましてや、せっかちな信長公であ
る、反応の思わしくない美少女より、リードも巧みな熟れた女に傾いたとて致し
方あるまい。
 ともかく帰蝶姫が1子を為すまで励めば別の展開があったものを、そこまでの
根気が信長公になかったのが拙かった。吉乃の噂は帰蝶姫にも漏れ聞こえる、彼
の姫とて一方ならぬプライドがある。しかし男女の道は恋慕の情ばかりにては上
手く行かぬ、経験も重ねずばならぬし時として演技も必要じゃが、こればかりは
容姿と教養と機転に恵まれた彼の姫にも手に余ったのじゃ。心が屈折すれば肢体
(からだ)も硬くなり、たまさか訪れた信長公は不興のまま帰ることに相なる。斯
くして閨(ねや)は日を追って間遠くなっていったが、それもまた致し方あらざる
ところじゃった...。や、これはしたり、この掲示板に似つかわしゅうない話をし
てしもうたわ。

 ま、何じゃな。閨を分かちて(夫婦生活が絶えて)後、帰蝶姫から「私、お暇をい
ただき、自儘(じまま)に暮らしとう存じます」と切り出したる方が、彼の姫らしゅ
うて宜しかろ。そして僅かな供を連れて、人知れず城(おそらくは岐阜城)を去っ
ていった...。
 帰蝶姫の人となりについて。例えば信長vs道三、会見の場in正徳寺では、信長
公は舅殿の覗き見を見越したような見事な早変わりを見せたが、これも帰蝶姫が
入れ知恵し、装束も用意したと仮定すれば辻褄が合う。�%




マモルさん  投稿日:09月27日(土)16時15分48秒
E-mail:
nobunari@tky2.3web.ne.jp
HP:http://www2.tky.threewebnet.or.jp/~nobunari/

松田殿へ・・・

マモルで御座る!
さて・・・松田殿、先程、書状を送りました。
が・・・何故か・・・「東大史料編纂城」に入れませぬ・・・
何故じゃ!!

まぁ・・・拙者だけ駄目なのかな・・・?




松田 裕二さん  投稿日:09月23日(火)22時44分35秒
E-mail:
yuuji@mxd.meshnet.or.jp

質問

初めまして。

突然で恐縮ですが、私公立高校で日本史の教員を
やっている者です。今までROMでしたが、ちょっと
私自身の研究で北条氏の顔(肖像画、木造)のわかる
ものを探していますが泰時のものが見つかりません。
戦国期の掲示板にこんな事を書くのはルール違反かも
知れませんがどなたかお教え願えないでしょうか。
この掲示板をごらんになりそうな方にもメールをお送り
しましたのでだぶってこの質問を読まれる方、申し訳あり
ません。どうぞよろしくお願いします。




マモルさん  投稿日:09月21日(日)04時14分28秒
E-mail:
nobunari@tky2.3web.ne.jp
HP:http://www2.tky.3web.ne.jp/~nobunari/

悲しい御話募集!!

マモルで御座る!
さて、山中鹿之介幸盛殿、御声援ありがとう御座います。
最近、図書館に行っては、龍造寺を調べながらも悲しい武将を探しております。結構・・・辛い・・・

そこで!皆にも大募集!!こんな悲しい武将は皆にも教えたい!!
と言う場合は・・・投稿して下され!

既に(第一回目から)ネタ切れのマモルじゃった・・・

PS:基準は無い!御自分で悲しいと思うものをお願い致す!!




乙三さん  投稿日:09月20日(土)04時28分26秒
E-mail:
jo6-life@nsknet.or.jp

Re.本多平八

 マモル殿の仰っている甲冑姿の肖像は、上下黒のヨロイ・スーツ(兜は鹿角)に
大数珠をたすきにかけ、"はたき"みたいな可愛い采配を構えて床几に座っている、
[個人蔵(たぶん平八の末裔の方が所蔵)]になってる肖像画ですよね。
 これって壮年期の肖像画ではないでしょうか?、かつての美青年も40代にさし
かかると大変貌を遂げることが多いですから。まさか大魔人や仮面ライダーの"の
り"って訳じゃあないでしょう。

 その色小姓バージョンは不勉強にして心当たりがございませんが、親父殿の本
多正信の肖像(うろ憶え)も痩せ形でデカッ鼻に金壺眼でよく似た風貌でした。た
ぶん、この血筋には"徳川青年団"を引退する頃には、この手の顔に変化させてゆ
くDNAがある!と考えられます。
 とはいえ、この肖像は好きです。凄みのある笑い方ですが、予期せざる敵の攻
めにさえ「ふん、そう来たか。こうでなければ戦さはつまらぬ」と笑みを浮かべる、
そのような平八の表情を捉えた肖像画だと感じました。
 平八は、理由は説明できなくても敵の動きや合戦の推移を見通せる、天性の勘
を備えた指揮官だったそうです。苦境に陥ってもニタッと笑い、直感に従って的
確過ぎる判断で兵を導く"過ぎたもの"本多平八。人間離れした指揮能力と絶対的
な自信,この上なくシンプルな人間性がよく描かれている思います。 かしこ




マモルさん  投稿日:09月19日(金)17時49分48秒
E-mail:
nobunari@tky2.3web.ne.jp
HP:http://www2.tky.3web.ne.jp/~nobunari/

再び!本多忠勝の肖像画

マモルで御座る。
拙者も図書館にて肖像画を集めた本を見たのじゃが・・・
本多忠勝の肖像画が二つあったのじゃ。
一つは有名なごつい兜をかぶって、眉間にしわをよせたギョロ目のやつじゃったが・・・
もう一つがすっきりした感じの好青年のようじゃった・・・(まるで色小姓)
拙者の頭はパニックに陥った!

「そうか!この色小姓のような忠勝はいくさになるとこのように(ギョロ目)変貌する大魔人のような・・・」
御先祖に後頭部を殴られて何とか落ち着いたが・・・
まだ・・・どっちがどっちだか解らぬ・・・
今度、本の題名を調べて載せますので皆様も御覧になって見てく出され。




乙三さん  投稿日:09月19日(金)07時30分59秒
E-mail:
jo6-life@nsknet.or.jp

追記;肖像画の楽しみ

 9月15日書き込みの拙稿"肖像画の楽しみ"にある、柴田勝家の「鎧を着た座像」は
「柴田勝次郎氏所蔵」と分かりましたので追記致します。

 お教え下さった pera女史にお礼申し上げます。また同女史はHP<らぶらぶ権六
ちゃん>http://www.netpassport.or.jp/~wyyamada/ のプレゼンターでいらっしゃ
いますので、こちらの方もどーぞよろしく。             かしこ




横田備中さん  投稿日:09月15日(月)19時23分49秒
E-mail:
zeppelin@z2.zzz.or.jp

勇み足にござった。

失礼仕った。まだよく把握できていないゆえご容赦くだされ。
では瓦版に参りまする。




横田備中さん  投稿日:09月15日(月)19時15分01秒
E-mail:
zeppelin@z2.zzz.or.jp

見参!でござる。

はじめまして。横田備中守高松と申します。
さて。これほど情報量の多いHPははじめてみました。すごい。
ということで。

>�\鏐饂�代最強の武将は本当に上杉謙信でいいのでしょうか
?
これはもうお蔵入りでござるか?

戦のうまさの比較はとても難しき事にて。そもそもそれがしのよう
な足軽大将と諸角豊後守や金丸筑前のような士大将。板垣駿河
守信方様のような御親族衆。そして御館様とそれぞれ戦上手と言
えども「上手」が違いまする。したがって戦国時代最強の武将とい
う者は、おらんと。そうゆうことでござるな。まあ足軽大将としては
拙者が最強でござるが。(資料が少ないだけにいいたい放題でご
ざる。)(^^)
しからばこれにて御免。




乙三さん  投稿日:09月15日(月)01時04分22秒
E-mail:
jo6-life@nsknet.or.jp

肖像画の楽しみ

 歴史書院で紹介させていただいた「戦国合戦大全」には、その当時描かれた
武将の肖像画も数多く挿入されています。これらの大半は写実的(たぶん、そっ
くり)である以上に、武将の人柄をも描き込められているように思われます。
現代の肖像写真と同じように、モデルの人間性が顕れている表情や仕草を映し
ているのでしょう。

 例えば柴田勝家(西光寺蔵の木像と、この「戦国合戦大全」には載っていな
かったので何処の所蔵かは知りませんが、鎧を着た座像),滝川一益(建勲神
社蔵),丹羽長秀(大隣寺蔵),明智光秀(本徳寺蔵)の4人を見較べると、
それぞれの性格が想像できて楽しい。
 勝家は、単純明快、指揮官先頭で平押しに押し、力まかせに押し切るタイプ。
まさに「かかれ柴田」で先鋒に適した武将。
戦場では暴れん坊だし普段もおっかない人と周囲からは見られがちだが、本人
は「侍大将は斯く在らねば」と必死に自分を駆り立てていたのでは?。
 一益は、勝家のような迫力はないが、敵の攻めを小器用にあしらいながら、
チャンスを機敏に捉えて鋭く得点につなげるようなタイプ。ランニング・バッ
クと云うか、次鋒に適した職人肌の武将。普段から、相手の論理に矛盾や曖昧
な点があると必ず見つけて鋭い言葉で指摘するので、本人に悪意はなくても他
人に親しみを持たれ難い人だったのでは?。
 長秀は、勝家のような剛さにも一益のような鋭さにも劣るが、諸事バランス
がとれていて融通が利くタイプ、中堅に向く武将。実際には際だった得意技が
ないだけで平均点は高いのだが、本人は取り柄がないと思っているような謙虚
な性格なので他人から慕われ援けられて手柄を立てる、課長 島 耕作のような
人だったのでは?。
 光秀は、画を見る限り女装させても似合いそうな美男子であり、それだけに
知性と品位が引き立って見える、これなら宮中や将軍家にもウケが良かった訳
だ。この人の織田家に仕えるまでの半生は不明な部分が多く、ということは他
人に言えないこともしてきたと思われるが、頭脳明敏にして博識多才、教養も
高かったそうだから、このエリート顔と出会った人は「きっと名門の出に違い
ない」と信じ込んだのではないか?。
 とはいえ甘いマスクとはアンバランスに眼付きだけはスキがない。相手の本
心と実力と見抜き、その行く末までも見通そうするかのような冷徹さがある。
合戦の仕方も難なく勝ったように見えて、実は周到に調べ上げて理詰めに考え
抜いた挙げ句、勝つ可くして勝てる態勢を整えてから合戦に望んだのではない
か?。少なくとも丹波攻略戦ではそうであったろうし、それこそが光秀の持ち
味だと思われます。                       かしこ




鬼義重さん  投稿日:09月14日(日)22時13分53秒
E-mail:
fwif2407@mb.infoweb.or.jp

さらなる、発展を。

FA殿、道中記を読んでいただきありがとうございます。
その他の、皆さんも読んでいただいた方、ありがとうございます。

これを期に皆様に少しでも歴史に興味をもっていただければと
思い、今回の道中記を書きました。

これからも、いろいろなことについて、語っていこうと思います。

ちゃちゃお殿は、最近休養中とのことですが、復活を楽しみにしています。

歴史SLGのこれからの発展のため、皆さんの意見があれば、
どんどん語っていただきたいものです。

以上     鬼義重




FAさん  投稿日:09月13日(土)15時32分05秒

道中記

素晴らしい。
実はこれを待っておった。
鬼義重殿の道中記。
Hiro.K殿にも一度書き送ったことがある。
道中記がもっと見たいゆえ、是非独立をとな。
しかし最近、拙者の提案が多いゆえ、Hiro.K殿に知らぬ間に迷惑をかけておっ
た。
申し訳ないことをしたと思うておる・・・
それに独立させたところで、書き込みがどの程度あるかも分からんということ
もあったでな。
書き込みが多ければ独立の可能性もありますぞ。
あくまでも可能性ですが。
義重殿。
これからも期待しておりまするぞ。




ちゃちゃおさん  投稿日:09月08日(月)19時18分11秒
E-mail:
chacha16@mug.biglobe.ne.jp

質問も書いていいことにしませんか?(続き)

なぜああもむざむざと負けたのでしょうか?

 他にも「織田家における光秀の本当の地位は?」「実際はどの程度の才能の
持ち主だったの?」など、一冊や二冊の本を読んだ程度では、わからない事もいっぱいあります。

 そこで、知らない事を書き、もしご存じの方がいらしたら、簡単でいいですから質問の答え
を書き込んでいただく、というシステムがあってもいいのではないでしょうか?

 質問自体が、大きな議題に発展していくこともあると思います。ほかにもその議題に
関して「この件に関してどう思いますか?」という書き込みをしてもいいと思います。 





ちゃちゃおさん  投稿日:09月08日(月)19時16分21秒
E-mail:
chacha16@mug.biglobe.ne.jp

質問も書いていいことにしませんか?

 歴史評定のコーナーにアクセスされている方には、相当お詳しい方が多数いらっしゃる
と思います。私のような素人が全く知りもしないような事も常識として知っていらっしゃる方も
多いと思います。
 そこで、提案なんですが、「その週の議題に関連する質問」も書いてもいいという事にしませんか?

 もちろん、歴史の本を読んだりすればわかる事が多いのでしょうが、素人の場合、どこに
そういう本があるかすら、わからない事も多いと思います。
 たとえば、本能寺の変に関する話の時、「本能寺から山崎の合戦まで光秀は何を
やっていたのか?」という物です。安土城を焼いた、書状を各武将に出したといった
断片的な話なら知っているのですが、なぜああもむざむざと負けたの�




ちゃちゃおさん  投稿日:09月08日(月)19時10分28秒
E-mail:
chacha16@mug.biglobe.ne.jp

議題提案について

 議題提案ですが、簡単に一言書くのではなく、「この議題はこのような広がりを
見せると思います」「このように様々な話題があると思います」といったちょっとし
た説明をつけた方がいいと思います。

 その方がHiro.kさんにとっても、議題選定の役に立つと思います。

 P.S. みなさん、いろいろ提案してください。さもないと、私が提案した稚拙な
議題になってしまいますよ(笑)

 P.S.2 私はほとんど歴史的な知識のない素人なので、私の議題提案には
的外れな物も多数あると思いますが、一つぐらい採用されればいいかなと思い、
いろいろ書かせていただきます。




Yoshikawa Tさん  投稿日:09月08日(月)02時27分24秒
E-mail:
nenemu@bc.mbn.or.jp

自動版開設おめでとうございます

自動版開設おめでとうございます。
今後も更に楽しみになります。
「本能寺の変、黒幕」は、以前から語られていることですが、
あえて私もこの件をあげさせていただきます。
あと、これは前々からこのHPに投稿したいと思っていたことなのですが、
浅井長政と信長の件です。単純にいって、
なぜ、長政は朝倉でなくてはならなかったのか、ということです。
信長関係の本を読んだりするとき、いつも浅井家のくだりで歯ぎしりする思いに
かられてしまうのです。

それでは、皆様ごきげんよろしう。




マモルさん  投稿日:09月08日(月)01時10分10秒
E-mail:
nobunari@tky2.3web.ne.jp
HP:http://www2.tky.threewebnet.or.jp/~nobunari/

祝辞!

マモルで御座る!
なんてこった!!拙者が旅行中に二万件アクセスだし・・・
自動掲示板が出来てるし・・・第壱号も狙えないし・・・

とにかく!!おめでとう御座ります!!

お!HP記入は第壱号か?!

何か・・・書き込みを考えておこうっと!!(^▽^)




別所長治さん  投稿日:09月07日(日)19時18分56秒
E-mail:
kaken@.po.harenet.or.jp

開設おめでとうございます。

開設おめでとうございます。
私もできれば、参加させてもらいたいと思います。
議題提案については、ちゃちゃおさんが提案されたのがよろしいかと思います。
この議題ならば、私も�ぐ奮阿六臆辰任�そうですので・・・
ただ、�,砲弔い討蓮⇔鮖砲犬磴覆�てゲームになってしまうのでは・・・(^^;)
あと、「織田信長とはどういった人物であったか」など、当時、普通でなかった人の性格や行動理念について、話し合ってみるのも面白いかもしれません。




ちゃちゃおさん  投稿日:09月07日(日)03時13分45秒
E-mail:
chacha16@mug.biglobe.ne.jp

議題提案by素人

�\鏐饂�代最強の武将は本当に上杉謙信でいいのでしょうか?
 信長の野望シリーズでは必ず謙信が武力100ですよね。でも、もっと強い人がいても不思議ではないような・・・。

�△笋辰僂蝓∨槐住�の変の黒幕!
 第一回はこれが一番いいのでは?話題を呼んでお客さんが集まると思います。

��戦国大名の強い順ランキング
 1位 上杉 2位 武田 3位が ・・・・ という感じでそれぞれの人が順位をつけ、その理由を述べるのです。結構大がかりな投稿が増えて、面白いかもしれません。

�ぐ歐靴陵魑�念・・・それぞれの瞬間、それぞれの人物は何を考えていたのか
 徳川慶喜の心中は・・・なぜあのような行動をしたのかとか。

�ゼ�分の住んでいる所の周辺の史跡の紹介
 日本全国からアクセスしているわけです%




ちゃちゃおさん  投稿日:09月07日(日)03時02分23秒
E-mail:
chacha16@mug.biglobe.ne.jp

素人にも参加させてください

 開設おめでとうございます。
 私の個人的な提案ですが、歴史をあまり知らない人でも参加できる部分を作って欲しいです。
 
 手動のボードの方はものすごくレベルが高くて、私などおそれ多くて全く書き込めない・・・。
 私はこう思いますといった事を素人でもかける部分を作ってください。
 やっぱり多くの人が参加できる部分がありませんと・・・というわけでお願いします。




伊達政宗さん  投稿日:09月06日(土)21時50分15秒
E-mail:
HiroK@hiro.org
HP:http://www.hiro.org/rekishi/

開設しました。

ようやく開設する事ができました。
まだ、運営準備段階とも言えますが、テストがてら始動させたいと思います。

このように表示されますので、以降は従来と同様にお願いします。
是非、第一回目の評定を早く行いたいと思いますので。
ではでは。