Back to 歴史SLG Back to 歴史評定

其の15

其の17




歴史評定 のお話 其の16


マモルさん

マモルでござる。
小西殿、同調していただけて感謝。ならば今回も「てつはう」についてじゃ!
まずその前に区別致す。種子島より伝わった鉄砲を「種子島」、明ル−トを「鳥銃」と致す。
さて、永誠十年(1510)に「鳥銃」が来たことを事実であるとして、なぜ「種子島」が出てくるまで実用されなかったのか?鉄砲が初めて実用されたのは天文二十三年(1554)九月十四日に島津の岩剣城攻防の際とされている。「島津忠将が城外に出撃した邪答院勢に鉄砲で攻撃した。それに対して邪答院もまた撃ち返してきた。」である。この「鉄砲」はむろん「種子島」のことじゃろう。ポルトガル来航から十一年後のことになる。が、「鳥銃」がきてから四十四年も経っている。
では、「鳥銃」はなぜ他の大名達に使われなかったのか?

・値段が高かった。
我が日本には無い技術だから当然売る側もふっかけてくる。
・実用性にかける。
無資源の日本においては大量生産は論外だ、ではどうやって他より稼ぐか、それは生産数は同じでも命中率を挙げる、丈夫である、等で稼ごうとしなければならない。でも、資源のある国では大量生産をして売りまくれば稼ぎに結びついてくる。しかし、当然質が落ちる。命中の悪さ、暴発、危険で高価な武器・・・いや、武器にもならない武器に誰が手を出すのか?
・伝統的に受け入れられない。
古来日本に有った武器は近接用に刀や槍であり、遠距離用に弓があった。弓は一見卑怯のようにも見えるがそうでもない、殺傷性が刀、槍より低いからだ。しかし、「鳥銃」は違う。当たればほぼ確実に死ぬのだ。恐ろしいほどの破壊性は日本人には受け入れられなかったのではなかろうか?

では、何故に「種子島」は重宝されたのか?

・生産ができるようになった。
前に書いたが、金兵衛清定がポルトガル人鍛冶師に教わっている。
・実用性の向上。
質にこだわる生産をした。職人堅気ってやつかな?
・伝統が薄れてきた。
戦乱が長引き、卑怯云々が言えない時代になってきたというのはどうだろうか?

今回は何の受け売りも無く、自分の考えを書いてしもうた・・・
反論!承るぞ!!

奇妙丸さん

どうも「歴史評定」は久しぶりですね。

本日「安土城」に三郎信長殿・稲富忠勝殿と登城してきました。
天主閣に行くまでにある家臣たちの屋敷跡の配置がおもしろかったので報告します。

まず、まっすぐの長い石段を登っていくと左「羽柴秀吉」右「前田利家」の屋敷が向かい合うようにあります。
尾張時代から近所付き合いが続いていたのでしょう。利家邸の裏が「丹羽長秀」の屋敷です。

石段の突き当たりには「徳川家康」の屋敷があり、現在は總(正しくはテヘン)見寺の仮本堂があります。
丹羽邸にはここから右に下ります。その上が信長の秘書官長「武井夕庵」の屋敷です。

少し登ったところにT字路があり、左に下ると「總見寺」で右に登ると天守の方です。左の方は、ほぼまっすぐに出口まで続いています。
そのT字路の突き当たりに「織田信忠」の屋敷があります。暫く立ち止まるのは私だけでしょう。(^^)
右の階段を登ると「森蘭丸」「織田信澄」の屋敷が並んでいます。
信忠邸より上にある屋敷は信澄を除き、信長の「小姓」です。
下には、いわゆる「部将」の屋敷が並んでいるところに信長家臣団の上下関係がよくでているように見えます。

すぐ上に「黒鉄門」があり「城」の部分に入ります。
中にはいると「長谷川邸」です。この屋敷は秀一か与次か宗仁かは私の浅学故、分かりません。
現在は「織田信雄」から4代の墓地があります。

その上は「二の丸(西の丸)」で信長公の廟所があります。立派な所でしたが門に落書きがしてあり興醒めでした。
みなさんマナーは守りましょう..。(しかし昭和36年からの落書きでした。治せよ〜安土町)

天守の下を横切ると「三の丸(東の丸)」です。裏には弾薬庫、米倉があります。
台所もありましたが「御台所」つまり信長公の奥さんの屋敷かもしれないとのことです。

いよいよ「天主閣」です。琵琶湖が一面に見え、抜群の景色です。
信長公は總見字の方の入り口から天主まで「馬」で駆け登ったそうですが、ここまでかなりの難所でした。

「安土城」は城というより「宮殿」と言った方が正しいと何かの書籍に書いてありましたが、本当にその通りです。
特に2つある入り口の途中までは真っ直ぐの石段が続いているのですから。城自体は籠城には向かないでしょう。
ヨーロッパの城のようです。ヨーロッパでは町全体で籠城するので城は領主が居住する建物を指すらしいです。

まさに信長公らしい「安土城」でした。

PS
マモル殿へ
以前「武功夜話」が気になると仰っていましたね。
「歴史書院」に投稿しましたぞ。
今回はかなりの遠投でした。

それからプロバイダを乗り換えるのでメールアドレスが変わります。
今までのアドレスにはメールを送らないで下さいね
暫く御邪魔できませんのでみなさんお元気で!
次はHPを作ってから参陣致します。では!(^o^)

乙三さん
E-mail:jo6-life@nsknet.or.jp

乙三です。
 いやー、モタモタしているうちに、マモルさんに自分が言いたかったことをあらかた言われちゃった。大部分、賛成です。いま内緒で会社からアクセスしていますので、ホラ話を手短に述べます。

一、はじめは倭寇によって日本にもたらされましたようです。マモルさんのご指摘の通り、輸入品の値段を吹っかけるのはありがちことですが、逆に云えば高くても買い入れる大名がかなりいたと思われます。
 信長が鉄砲に着目した最初の武将という訳ではなく、それ以前にも鉄砲の威力は評価されていた。しかし入手しにくかったため普及しなかったと考えられます。

一、しかし実際に国産化してみると輸入品よりも安価に製造・販売できたし、それによって普及が加速された。
大名の鉄砲保有数が増えて実戦に投入されるようになると、その評価と需要がますます高まっていって、それが鉄砲生産能力の拡充を促し、入手が容易になったことが大名の鉄砲装備率をさらに高めていった。

一、鳥銃と種子島銃の製法の違い。国産化の課程で製法が、主として鋳造部品を組み立てる鳥銃の方式から、鍛造に近い種子島銃の方式に変化した。
製法の変化によって、より強度が高く、より軽量になり、かつ射程と命中精度に優れた銃に改良された。威力と実用性が増したことにより、一気に販路が拡大したと考えられます。

 鳥銃の製法(私の想像では...)
[1] 断面が短辺を丸く凹ませた台形状もしくは扇形の鋳物の棒を作ります。
  ....鋳物の棒の1本には尾栓になる円筒状の部分が予め付いており、もう1本には火口(点火孔)する穴が開けてあり、他は単純な台形もしくは扇形です。
[2] それを6本(前後)組み合わせた上に"鋳掛け"で接着し、筒を作ります。
  ..."鋳掛け"とは、溶かした鉄をかけて部品をくっつき合わせる技術です。
[3] 管の数ヶ所ないし十数ヶ所を輪でかしめ、補強します。
  ....これで銃身の形ができます。
[4] 銃床に固定し、点火装置など細かい部品を組み付けて完成。

 種子島銃の製法(若干の想像を含みます)
[1] 鉄の棒を芯にして、細長い鋼の帯を巻いて管にします。
[2] 管の全長、何層にもわたって細長い鋼の帯を螺旋状に巻き付けます。
  ....これで銃身の形ができます。
[3] それを炉の中で溶けそうになるまで高温に熱して材料を焼結し、同時に金槌で打って(鍛造工程)さらに強固に銃身を一体化させます。
[4] 再び熱して芯の鉄棒を抜いた後、銃身の断面が6角形になるように研磨します。
  ....6角形の断面は鳥銃のデザインの名残でしょうが、研磨することによって必要な強度を保ちながら軽量化できたと思われます。
[5] 銃身の一方の口に雌ネジを切り、また火口を開け目当てを組み付けるなど銃身に直に施さなければならない加工を行います。
[6] "焼き入れ"を行います。
  ..."焼き入れ"とは表層の含有炭素を除去して表面硬化を促し、また表面に一酸化鉄の皮膜を生じさせて防錆性を高める工程です。
[7] 銃身の雌ネジを切った口を雄ネジの尾栓で締め、銃身はでき上がり。
[8] 銃身を銃床に固定し、点火装置など細かい部品を組み付けて完成。

 なお当時の日本では、鉄砲や大筒は"張る"すなわち貼って作るものだったそうです。古来の侍言葉には、動作の対象に応じて異なる動詞を用いた傾向があります。
例えば刀は"切る(斬る)",槍は"突く",弓矢は"射る",鉄砲は"放つ"であり、動詞だけで何をどうしたいのか伝えることができたようです。これは戦場で一言を発するだけで命令を理解させるために工夫され、形成されていった習慣でしょう。
 因みに戦場で"うて"と命じられたときは、「敵の大将を"討て"」すなわち「敵の大将に攻撃を集中させて首を"討ち"とれ」という意味だったでしょう。そういう状況でないときには、「石を"打て"」すなわち「石を投げよ」という意味や「敵を"伐て"」すなわち「敵軍を討伐せよ」という意味に使われたと思います。
現代では銃は"撃つ"ものですが、当時は"うつ"という動詞の対象が広かったので誤解を避けるために敢えて限定した使われ方をしていて、それで鉄砲が"放つ"になったと考えられます。
 そういう視点に立つと、鉄砲や大筒が"張る"ものであって、"鋳る"すなわち鋳造品でなく"打つ"すなわち鍛造品でもない別の製法をとっていたことが窺われます。
 前回の話の続きは、(調べ直しているので)別の機会に...

かしこ

マモルさん

マモルでござ−る。
今宵は「とも殿」のお葉書から・・・
何々、う−んと・・・立花道雪のことが知りたいのですな!!結構知っておりますぞ!

立花道雪・・・(1513〜1585)=戸次鑑連(べつき、べっつき、へつぎあきつら)、永正十年三月十七日、戸次親家と由布惟常の娘の嫡男として生まれる。大永六年(1536)四月、戸次氏の家督を相続、元服して鑑連となる。そのすぐ後、雨宿りのためによった木に落雷が落ち、足が不自由になる。(・・・右足だったか左足だったかは忘れた。)、以来、輿の上から指揮をとり、味方が不利になると我先に突っ込んだと言う。左衛門太夫、ほうき守、ほうき入道、紀伊入道、丹後入道、麟白軒、道雪と称す。
天文二十三年頃、家督を嫡子鎮連(養子、大友家の者らしい)に譲る。
永録八年(1566)の立花合戦にて功があり、立花城をもらう。元亀二年(1571)、加判家老を辞めて、立花氏の名跡を継ぐ。天正三年、娘闇千代に家督を譲る。天正九年、高橋紹雲の長子統虎を婿養子にする。(後の立花宗茂)。天正十二年頃、筑後へ出陣。同十三年九月十一日、高良山陣中にて死去、享年七十三歳。

逸話:政治を怠って、放蕩三昧する宗麟に諫言するために、自分も放蕩三昧に浸った上で宗麟を招待した。喜んで現れた宗麟を大いにもてなした後、諫言したのである。そのために道雪も放蕩三昧にふけっていたことに気づいた宗麟は感動したそうである。
も一つ、陣中で没した武将といえば・・・信玄、そう武田信玄だ!実は、道雪の武勇は東国に及び、それを聞いた信玄は「ぜひ一度会いたい。」というラブレタ−みたいなものを道雪に送ったそうである。

かっこいいよなぁ・・・立花道雪って・・・いや、まじで・・・

安部龍太郎氏 チビマロさん

数カ月前の朝日新聞に「近頃お勧め時代小説」という欄があった。
安部龍太郎氏の特集だった。
それ以来安部龍太郎氏の小説を探すようになった。
最近PHP文庫の「太閤の城」を購入したが、「真田太平記」に手間取りまだ読んでいない。
他に安部龍太郎氏の作品には「風の如く 水の如く」、「関ヶ原連判状」、「密室大坂城」などがあるそうだ。
これらは文庫で出版されているのだろうか?
チビマロは知りたい。

其の15

其の17