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其の21

其の23




歴史評定 のお話 其の22


マモルさん
E-mail:
nobunari@tky2.3web.ne.jp
HP:歴史If城

悲しい武将シリーズ・相良義陽と甲斐宗運

マモルで御座る!
さて、悲しい武将シリーズとは歴史上の人物で可哀相(涙)とか死ぬなぁ〜(怒)とかいう人中心にお涙頂戴系を趣旨としたもので御座る!(意味不明)

第一回目!嗚呼悲しき義将?!

甲斐親直(宗運)は肥後御船城を居城とし、阿蘇家の執政として名を上げた仁である。
一方、相良義陽は相良晴広の子で、1555年、十二歳で家督を継いだ仁である。
阿蘇、相良両家は大友氏と結びながら、共に反島津戦線を結成していた。
とくに宗運と義陽の間には誓詞を交わすほど親密であった。
しかし、耳川の戦いで大友氏が衰亡したため島津の脅威は目の前に迫っていた。
そして天正九年八月、島津義久が義弘に相良攻めさせたのである。義陽は必死に迎撃をしたが・・・水俣城が落城した為、義陽は葦北全部を割譲して島津に降る事になった。
ここからは戦国の常か・・・島津は義陽に阿蘇家征討を命じるのである。

拒めば相良家の滅亡、といっても誓詞を交わした甲斐宗運を攻めたくはない・・・しかし、義陽は阿蘇攻めを決めざるを得なかった。

天正九年十二月一日、相良義陽は古麓城を出陣、途中に白木妙見社に立ち寄り、戦勝を祈り、甲斐宗運と交わした誓詞を焼却させて出陣となった。
(その際、軍旗が木に引っかかって千切れたという。)

一方、御船城の甲斐宗運はこの相良来るの報を信じなかった。「一時の計略に過ぎない。」と考えていたが、物見の報からその裏切りを知った。

相良勢は堅志田城を攻め落とし、そして甲佐城を攻め落として響野に本陣を置いた。その報を聞いた甲斐宗運は耳を疑った。「娑婆神か鬼沙川に本陣を置かずに響野に置くとは・・・相良の命運も尽きたか・・・」
そう、響野は攻めるに易く、守るに難い所であるのだ
宗運は義陽の心中を思いながらも、相良との決戦を決意した。互いにとってこれほど不幸な事は無いというのに・・・

宗運は本陣を飯田山に置いたように見せて、そのまま響野に向かった。相良軍の斥侯は甲斐軍を援軍と見違え、そのまま素通りさせたのである。
十二月二日、突如として現われた甲斐宗運の軍は相良の背後へ殺到した。

相良義陽は次々と倒れ行く配下を見ながら、落ちる事を拒み、将几に腰を据えたままであった。そして終に・・・甲斐の家臣緒方喜蔵の一刀を受け戦死するのである。享年三十八歳。

義陽の首を見つめながら宗運はこう言った。
「相良家を失った阿蘇家もまた、三年を経ずして滅亡するだろう。」
涙が彼の顔を濡らしていたという。

この二年後、宗運が病死したため、島津家が阿蘇領に殺到した。そして、阿蘇氏・甲斐氏は滅亡した。

最後に・・・伝説とされているが拙者は信じたい事がある・・・
・相良義陽はわざと響野に布陣した。
・その情報を甲斐宗運に漏らした。

悲しい・・・義とは悲しみしか生まぬのか・・・

PS:誰かこのシリーズに協力して下さい。

乙三、またの名を大膳大夫さん
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本能寺の”変”な真相(ちゃちゃお殿にレス)

 私は、やはり(何度か同じことを書いているので)共同謀議説を採ります。
共犯は羽柴秀吉と徳川家康、毛利,北条,上杉も同調したと考えられます。状況証拠のみで具体的な根拠に欠けますが、あの光秀が成算に乏しい反乱を起こすとは、どうにも納得がゆかないためです。

 丹波攻略に際して、光秀の所領は南近江・滋賀1郡のみ、動員可能な兵力は多めに見積もっても3千足らず。北山城の豪族・地侍を指揮下に置いたと云われるが、それを加えても最大兵力は5千程度、しかも5千の兵を長期にわたって展開し続けるのは困難だったでしょう。顧みて丹波・丹後を併せた兵力は9千を超え、親織田派や中立派を除いた地元敵対勢力の兵力合計は少なくとも光秀と互角、おそらくは上回っていたと思われます。
 それを相手に、4年2ヶ月(1575年6月から1579年8月まで)かけて丹波・丹後両国を平定しています。1576年 4月から1578年12月の間に細川藤孝,筒井順慶を寄騎(組下)大名として付けられていますが、各方面の援軍に頻繁に駆り出されているので割り引いて考える可きでしょう。また光秀の軍団だけは他軍団の応援を借りていません。
 この実績から思うに、光秀は、周到に準備し緻密な作戦を立て計画的に実行するタイプの武将だったようです。その光秀が、遅かれ早かれ織田家中の他軍団から袋叩きに合うのが明らかな間抜けな反乱を起こすとは、私は腑に落ちません。本能寺を襲う前から、光秀には成算あるクーデター計画ができていたと推測されます。

 そしてクーデターを成功させるには、織田家の軍事力の半分以上を掌握しなければなりません。秀吉と家康の2人と共謀した上で、信長と同時に信忠も討ち取れば信忠の軍団は空中分解する。北陸,甲信,北関東の勝家や一益などの軍団に対しては、上杉や北条が攻勢をかけて少なくとも足止めを食わせれば、残るは四国渡海準備のため堺にいる信孝,長秀の軍団のみ。まず信孝,長秀を撃破するか降服させ、信雄(それがダメなら信澄)を抱き込んで織田家の継承者に担げば、その他大勢の家中の大小名は従うであろう。それでもなお従わない者がいれば、主命を以て光秀,秀吉,家康の連合軍が一気に攻め潰す。後は、御曹司の誰かを表向きの代表者にして有力武将の合議制で織田家を運営する。
このようなシナリオが忠実に実行されれば、おそらくクーデターは成功していたでしょう。
 問題は”主殺し”である光秀の処遇ですが、取りあえず家臣と領地を女婿の細川忠興に相続させ、光秀自身は剃髪して謹慎する。多数派の支持が得られた場合は織田家の行政官として復権し、最悪の場合でも光秀1人が腹を切って事を収めるつもりだったとすれば、辻褄が合ってきます。

 クーデターの動機は、信長が日本の封建体制を壊して絶対王権を建てようとしていたこと、それが完成した暁には封建領主は全て家臣と領地を没収され、官僚として政権に止まるか追放されるか何れかの運命をたどることになると、光秀や秀吉,家康は洞察していたからと考えられます。だからこそ光秀は正義と信じ、いずれ家中の多数から理解も得られると楽観していたのでしょう。

 うーん、小説のネタにはなりそうですが、新しい説と云うには根拠が薄弱ですね。おいおいに裏付けをとってゆく所存です。         かしこ

山中鹿之介幸盛さん

悲しい武将シリーズ頑張れ

山中鹿之介でござる。悲しい武将シリーズ大変楽しみにしております。
それがしのすごく好きなフレーズゆえ、尼子関連でよろしければぜひそれがしもこのコーナーに参加させていただきたく存ずる。
では、第二段楽しみにしておりますぞ。

マモルさん
E-mail:
nobunari@tky2.3web.ne.jp
HP:歴史If城

悲しい武将シリーズ・佐野道可(さの どうか)

マモルで御座る!
さて、悲しい武将シリーズとは歴史上の人物で可哀相(涙)とか死ぬなぁ〜(怒)とかいう人中心にお涙頂戴系を趣旨としたもので御座る!(意味不明)

第二回目!嗚呼、謀略の果て

毛利輝元は、徳川家の策にはめられて厳封を受けた悲しき藩だ。
関ヶ原以降、幕府の顔色を伺いながら細々とやりくりして行くこの藩にとって、大坂に期待したのは仕方ない事かもしれぬ。

関ヶ原の際、友軍の吉川広家軍に阻まれ、前進出来なかった毛利秀元は、松平康元の娘を娶り、大坂の陣では奮戦して徳川の覚えがよくなった。毛利家はこれで徳川の信任を買ったと言うが・・・

大坂夏の陣の後、藩主・秀就、秀元、輝元等に嫌な報告が届いた。
大坂浪人の中に毛利の重臣がおり、捕縛されたのだ。
名は佐野道可、本名は内藤元盛である。大内義隆の臣・内藤隆春の養子で、毛利より一万石を得ていた重臣である。

幕府は毛利の叛意を疑い、かの者を尋問したが、「豊臣に恩義があって毛利を出て自分で大坂に参った。」と言い張るので、道可の二人の息子を呼んで尋問した。が、「父とは以前より不仲であり、まったく知らぬ事である。」と主張したので幕府も納得した。その背景には、毛利の減石を不満に思って出奔した者が多かったからでもあった。

そして、佐野道可が山城の鷲巣寺にて切腹した時、この事件は終わったようにみえた・・・

だが、不幸は終わっていなかった。幕府の尋問を逃れ帰国した佐野道可の息子・内藤元珍(もとよし)、粟屋元豊(もととみ)が・・・帰国から一年後に切腹を命じられたのだ。
幕府が咎め無しとしたこの二人を何故に切腹に追いやったのか・・・

実は・・・藩主・秀就、秀元、輝元が佐野道可を大坂に遣わしたのだ、大坂は堅城であり、攻めている最中に家康が寿命で死去し、大坂が勝つ事がありえると踏んだのである。その際の布石として佐野道可を大坂入りさせたのだ。

だが・・・予想は大きく外れ・・・大坂は早々に落ちた。こうなると佐野道可や、そのことを聞いた可能性のある二人の息子等は邪魔だった・・・

それで・・・佐野道可及び二人の息子は粛正されたのである。

悲しい・・・藩主の小細工の犠牲になる・・・武士(もののふ)・・・

PS:この話が後世の創作とされるが・・・関ヶ原で吉川広家に協力した福原広俊の手紙が現存している。その手紙とは、大坂夏の陣が始まる前、この事に気が付き、調査した結果、事実と解ったので慌てて広家に送った手紙である。その中で藩主や隠居、秀元等の策謀を「いらざる事、小細工を労しておる。」と非難しているそうな・・・

PS2:誰か!!ご協力して下され〜

鬼義重さん
E-mail:
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将星禄にて佐竹家イベントの真相

将星禄にて、佐竹家イベントで(上杉家のイベントの前に発生)佐竹義昭公が、北条氏康との河越野戦に敗れ上杉憲政から、家名と関東管領職を譲る条件で庇護を求められましたが、辞退するイベントがあります。

理由としては、上杉氏は平氏であり、佐竹氏は源氏姓を踏襲したかった(佐竹家は新羅三郎義光の子義業の子孫)という理由がありました。

ここで上杉氏は、何故平氏姓かという疑問があります。
調べたところ、上杉氏の祖先は鎌倉時代末に公家であった『観修寺重房』という人物であり、その重房が平氏姓だったと思われます。

重房は当時の公家世界に不満を抱き、武家の統領であった源氏を慕いの足利泰氏の家臣となりました。
重房は足利氏のため武家と公家の橋渡し役として活躍したとあり、後に上杉姓を名乗るようになりました。

その上杉重房の子孫が、鎌倉公方(伝統的に足利氏が就任、古河公方、堀越公方など)の代官職である関東管領職を歴任するようになったといわれています。

まだまだ調べるといろいろと発見することがあり、このままでは、太平記について語ることになりそうなのでこの辺でやめときますが、歴史とは、調べてみると面白いですな。ほんと...

マモルさん
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nobunari@tky2.3web.ne.jp
HP:歴史If城

悲しい武将シリーズ・大河内源三郎政局

マモルで御座る!
さて、悲しい武将シリーズとは歴史上の人物で可哀相(涙)とか死ぬなぁ〜(怒)とかいう人中心にお涙頂戴系を趣旨としたもので御座る!(意味不明)

第三回目!嗚呼・・・不運な三河武将

天正二年五月、武田勝頼は高天神城を攻めた。
城主は小笠原長忠であった。
長忠は度々援軍を請う使者に家康に出したが、家康は長忠の忠誠を疑っていた為に兵を出さなかった。
信長に援軍を頼み、甲斐勢を引き上げさせようとしたが、援軍の到着前に城は落ちた。

高天神城は遠州における戦略上の重要な拠点であった。
武田と徳川の間でしばしば攻防が繰り返されたが、天然の要害の高天神城に大勢は散々手を焼いたが、援軍は来ないと知った長忠が武田方に寝返り、開城となったのであった。

ここまでは戦国の常である。
だが・・・
長忠が降伏しても、ただ一人、武田に降るのを断固として拒否した武将がいた。
その名を大河内源三郎政局(まさちか)といった。
源三郎は一日中陽の射し込まない牢屋に入れられ、再三にわたる降伏勧告を受けたが頑固に拒んで意地を押し通し続けた。
これにより武田が説得を諦めると源三郎の存在はすっかりと忘れ去られてしまった。

源三郎は牢番が運んでくる粗末な食事と湿気に耐え、三年、五年と月日が経っていった。
その間に視力が衰え、ついには失明し、足腰も萎えてしまった為に一人で立ち上がる事もできなくなってしまった。

が、牢番が時折口にする事から、源三郎は徳川方の動きを知る事ができたのだった。
長篠の合戦の事を知り、家康が着々と版図を広げ自分のいる高天神城に近付いている事も知った。
どれほどの年月が経過したのかも分からないほど、源三郎は待ち続けたが、高天神城に家康の軍がやってくる気配が無い。この城の東の諏訪城や小山城で戦いがあった事を知ったが、高天神城だけは取り残されていた。
病苦と死の恐怖。もがき苦しみながらもいつか救出にやってくると、家康を信じて源三郎は待ち続けた。

源三郎が救出されたのは天正九年、牢に閉じ込められてから満七年が経過していた事になる。
家康の前に連れてこられた源三郎は骨と皮ばかりで干からび、人間には見えなかったという。
「源三郎か。予が家康である。待たせたな・・・。」
家康のねぎらいの言葉に源三郎はかすかに頷いたが、喜びの涙も零れないほどに衰弱しきっていた。
三河武士の凄まじい気力を知って家康は人目をはばからず涙を流したという。

意地を貫き投した事で安心したのか、源三郎は救出された二、三日後に力尽きた。

高天神城ではその石牢が今に残されている。

嗚呼・・・意地も悲しみしか生まぬのか・・・
それとも・・・彼にとってはこれで良かったのか・・・
悲しい・・・

PS:本多忠勝殿の投稿を拙者が代行致しました!う〜ん・・・何と悲しい話じゃ・・・忠勝殿!感謝!!

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