井戸端新聞・第十六号  
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[今週のINDEX]

第十七回井戸端評定開催の御案内

再来週の議題について

第十六回井戸端評定の結果

関ヶ原会盟の告知

会盟檄文掲載の告知

前回評定の他の御意見




 第十七回井戸端評定開催決定 

此度、井戸端評定において、毎週議題を設けて評定を開催致します。
開催は毎週日曜日午後十一時三十分〜翌午前一時迄で御座ります。
議題の内容は、戦国中心となりましょうが、それ以外(三國志など)も可と致します。

第十七回は、平成十年二月二十二日午後十一時三十分。
戦国の議題・「秀吉九州下向談義」


※ 随時井戸端評定の案内(
「評定開催」)へ掲載されております。
※ 評定が始まれば参陣の方々には挨拶をしないで下さい。拙者等代表が挨拶しますのでご安心下さい。
※ 当面は参加者のお名前を参考に、各大名家にまつわる議題で進めて行きます。
※ 各自議題を用意して評定に望んで下さい。毎評定終了後に次回議題を決定します。
※ 傍観も認められています。

奮ってご参加くださいませ。

尚、昼衆の皆様にはこのように新聞にて結果を発表したいと思います。
何卒ご容赦下さいませ。



 再来週の議題について 

再来週より、戦国以外の歴史談義となります。
そのため、来週は戦国から離れた議題を募集致します。
三国志、幕末、第一次、第二次などです。



 第十六回井戸端評定の結果 

さて、白熱の論議が交わされた第十六回の評定は無事に終了しました。
参加出来なかった方々の為にも結果を掲載します。

戦国の議題・「桶狭間合戦談義」

※今川義元の動悸
・尾張制圧
・上洛
・上洛の為の布石
・後詰め戦

※上洛は可能だったか?
・天下を臨むには障害がありすぎた。
…三好・六角・浅井が障害だとして、三好・六角は連携しているし、
…駿河・遠江・三河・尾張の石高から兵力を換算して、約一万九千人動員したとしても、上洛、維持は難しい。
…伊勢ルートでも、上洛は可能だが、維持が難しい。
・「将軍家を助ける」という大義名分があれば可能。
…義昭が亡命してくる可能性もあった。
…義輝存命であれば、それは有り得ない。
…義元の年齢も考慮される。

※戦をする前に、氏真に家督を譲っていた。
・桶狭間以前に家督を譲っていた説がある。
…家督を譲り、軍事は義元が握っていた。内政・軍事の分掌は、元は九州探題今川了俊の家でもある為、考えられる。

※桶狭間合戦について
・正面決戦!!
…一般的に言われている、側面からの奇襲攻撃は創作と言われている。
…義元本陣は桶狭間山にあって、討たれた場所が一般に言われている桶狭間の谷間であった。
…強行軍の信長・2000人と、手付かずの義元の旗本・5000人の戦い。雨に救われたとは言え、これで勝てたのだから、実は強兵だったのではなかろうか?
・清洲城を出た時点では、何を目標にしていたのか?
…丸根、鷲津両砦を救う為に出陣し、本隊の情報を得て、正面決戦を挑んだのか?
…両砦と戦った部隊と戦をすれば、その戦は勝てると踏んでいた。
…熱田以降、善照寺砦に入り、お情け程度の兵を鳴海に向わせ、何故川を渡って中島砦に入ったのか?
…機を逃さぬ為、川を渡った。 …鳴海城の救援する為の出陣で、鳴海城に向けられるはずの敵兵力を叩く予定であった?
…どの道、中島砦に入った頃、目の前に大きな得物が現れたので決戦を挑んだ。

※千秋、佐々が戦った相手は義元本陣なのか、それとも義元の前衛部隊なのか?
・本陣が戦う事はあまり考えられないが、もし戦っていたとすれば、勝ちに油断してた可能性がある。

※桶狭間で鉄砲を使っていたのだろうか?
・不明。

以上が主な意見でした。
皆様のお考えは如何に?!



 関ヶ原会盟の告知 

井戸端の一大イベントとなる関ヶ原会盟が本格始動しはじめました。
イベントもあり、情報ありの素晴らしい会盟になると思われます。
どなた様もぜひ!
こちらへおいで下さい。




 会盟檄文掲載の告知 

東西で会盟が催されます。
詳細は「
井戸端会盟檄文」を御覧下さい。



 前回評定の他の御意見 

加藤家に関しては、秀頼公のご出陣があれば西軍付福島家の場合は秀吉公との縁であまり秀頼公との相性はよくない。
よって、東軍付。
また、当家文書では、関ヶ原の折り、秀頼公は病気療養中。
出陣は無理であったのではないか?

但し、当家は後に、東軍に属した為、当家文書の信憑性は定かではない。
本来、当家は荒木家の家臣であり、謀反によって織田家に従臣した身なので、豊臣家に対しての義理はあまりなかった。
織田家家臣時代には摂津で11万7620石の大名だったのが、豊臣時代には10万9300石に減封になっている。
しいては、徳川時代には豊後で7万440石の外様となってしまった。
状況からいえば、本能寺の変がなければ、織田家とは親戚関係で、畿内に領地を持ち、2代当主も織田家の畿内掌握の為の奉行制度のなかで、かなりな地位が約束されていたことを思えば無念ではある。
・中川清秀殿



編集 鍋島信生:VFF07310@nifty.ne.jp
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平成十年二月十七日