井戸端新聞・第十七号  
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[今週のINDEX]

第二十一回井戸端評定開催の御案内

第二十回井戸端評定の結果

関ヶ原会盟の告知

昨今の事




 第二十一回井戸端評定開催決定 

此度、井戸端評定において、毎週議題を設けて評定を開催致します。
開催は毎週日曜日午後十一時三十分〜翌午前一時迄で御座ります。
議題の内容は、戦国中心となりましょうが、それ以外(三國志など)も可と致します。

第二十一回は、平成十年三月二十九日午後十一時三十分。
戦国の議題・「戦国天皇談義」


※ 随時井戸端評定の案内(
「評定開催」)へ掲載されております。
※ 評定が始まれば参陣の方々には挨拶をしないで下さい。拙者等代表が挨拶しますのでご安心下さい。
※ 当面は参加者のお名前を参考に、各大名家にまつわる議題で進めて行きます。
※ 各自議題を用意して評定に望んで下さい。毎評定終了後に次回議題を決定します。
※ 傍観も認められています。

奮ってご参加くださいませ。

尚、昼衆の皆様にはこのように新聞にて結果を発表したいと思います。
何卒ご容赦下さいませ。



 第二十回井戸端評定の結果 

さて、白熱の論議が交わされた第二十回の評定は無事に終了しました。
参加出来なかった方々の為にも結果を掲載します。

戦国の議題・「戦国武将の遺訓」
・黒田如水の遺訓
下駄と草履を片方ずつを出して、長政に見せたところ、長政は何の意味があるかと、不思議がった。
すると如水は「あまり意味のないことを、深く考えるな。」
「決断は瞬時にせよ。うだうだ迷うな」と言う意味。
・真田昌幸の遺言(武将感状記より)
自分(昌幸)が死んだ後に、家康は必ず兵を起こして、大阪を攻めるであろう。それを阻止するために我が子幸村にその戦術を教える内容。
「1、大阪城に籠もらず、討って迎え入れよ。
2、家康を迎え入れる場所は、関ヶ原の近くにせよ。(それを聞いた幸村が、何故に関ヶ原の近くに布陣するかを聞くと、遺恨残る関ヶ原の近く、必ずや兵の士気も上がるであろうと、息子に言った。)
3、この戦術は、この昌幸であってこそ受け入れられるのであって、幸村のような若輩者が献策しても、誰も聞き入ってくれないであろう。
最後に付け加えて、大野治長の様な者が、大阪城を滅ぼすであろう。」
・快川紹喜の遺訓
「心頭滅却すれば、火もまた涼し」…誰が聞いたのか?外に向って大声で叫んだのかも…?
・甲斐親直(宗運)の遺言
「相良義陽亡き今、三年以内に阿蘇家、甲斐家は滅ぶであろう。」
事実、宗運亡き後、阿蘇、甲斐は滅んだ。相良義陽死後の三年後だったとか…
・森長可の遺言
「自分が死んだら、大名にもなるな、妻は池田家の人物だから、池田家に送り返せ、自分の娘は京都の人間と、しかも医者がよい。」
・辞世の句について
「いづるより入る山の端はいづくぞと 月にとはましむさし野のはら」(伊達政宗)
…「ひと度は武蔵野=関東平野さえ狙えるまでに勢力を拡げたのに、元の黙阿弥になっちゃったな、俺の人生」
「紅爐上一点の雪」(傳龍造寺隆信)
では辞世とはどういう形で詠まれていたのか?
系統は色々ある短歌、漢詩などであるが、一体何なのか?これは自分の意志を後世に残そうと言う意味だったのでは無かろうか?(神戸信孝の…やがて報いん羽柴筑前…など)
・足利義輝は、軍勢に囲まれながらも、辞世の句を詠んで、女官の袖に忍ばせて残した。だが、同席した細川藤孝も逃げ切っている事から、藤孝の代作かも?

以上が主な意見でした。
皆様のお考えは如何に?!



 関ヶ原会盟の告知 

井戸端の一大イベントとなる関ヶ原会盟が本格始動しはじめました。
イベントもあり、情報ありの素晴らしい会盟になると思われます。
どなた様もぜひ!
こちらへおいで下さい。




 昨今の事 

最近、奉公先の都合などで参加が不可能になられると言う事もあると思います。 絶対に不可能になった場合、必ず連絡ください。




編集 鍋島信生:VFF07310@nifty.ne.jp
御意見・感想・投稿記事や何らかの事故の際はこちらに書状を下さい。
尚、購読拒否の方も書状にて拒否の旨を御伝え下さい。


平成十年三月二十八日