稲富忠勝さん 
E-mail:m-hata@pp.iij4u.or.jp
 今回は信長の凄いところと、家康がなぜあのような支配体制をとったかについて話たいと思います。かなり長いですが、よんでいただけると幸いです。よろしくお願いします。 
 
 商業に目をつけた信長は凄いと思います。武士というのはもともと東国で畑を耕し、荘園の役人をしていたのが始まりです。そのせいか、農本経済から脱却できないように思えます。信長はまだ商品経済への過渡期であった戦国時代に尾張、安土で楽一楽座をしています。信長はこの時代に市場経済というのがわかっていたんです。寺社や貴族と結びついて、民から税金をしぼりとった方が楽なのですが。 
 
 信長は新しい家臣にチャンスを与えたように、民にも商業で豊かになるチャンスを与えました。その結果豊かな城下町ができあがりました。しかし、武士による絶対支配を考えると、自由経済はマイナスに働きます。誰にでも豊かに、力を貯えるチャンスがあるわけです。歴史をみていますと、商業で力をつけて支配者になったものもいます。秦の始皇帝の宰相の呂夫葦は商売で貯えた富でもって大国秦の宰相になって権力をふるいました。ところが信長は自信家で天才であったのでそのようなことは考えませんでした。そのような油断が本能寺の変をうんだわけですが。 
 
 家康も市場経済の良さがわかっていたと思います。しかし、誰にでもチャンスがあるという社会は自分の支配がいつ崩れるかわからない状態になります。それぞれの身分に縛り付けておいて、規制をかけておけば、自分の身分は安定します。農業のみの社会は発展しません。なぜなら天候で収穫量は不安定ですし、栽培を続けると、土地はやせてくるからです。英仏のように大規模農業は別ですが。豊かになるチャンスはなく、一生そのままというのは絶対支配という点ではベストの方法です。被支配階級が発展しなければ、支配階級である家康の身分は安泰です。社会が変化し、発展しないということは自分の身分も変化しません。家康も市場経済の良さは分かっていたと思いますが、様々な武将の失敗を見ていますので、自分の家をずっと永続させるために、士農工商という制度をとったのだと思います。 
 
 もし、信長が天下をとったと仮定します。どのような支配体制を作ったのでしょうか。江戸幕府のようなシステムは作らなかったと思います。父親以来の旧臣を切り捨てて、秀吉のような貧しい百姓をとりたてた信長ですから、逆に市場経済で育った豊かな新興の商人階級は国家にプラスになり、ひいては自分にプラスになると考えたでしょう。しかし、前述の通り、新興勢力が自分の地位を脅かす恐れもあります。信長は天才で自信家ですから、そのようなことは考えなかったでしょう。信長政権が誕生していたら、今の日本はどのような社会になっていたんでしょうか 
 
次回は家康の支配体制がいわゆる日本的体質をどのように形作ったかについて話たいと思います。最後まで読んで頂き有り難うございます。 
稲富忠勝でした。なにか意見のあるかたはメールをいただけると幸いです。 
よろしくお願いします。 
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真夜中の訪問者さん 
 稲富忠勝さんのお話、面白く(って言っちゃ失礼かなぁ、本当に面白かったんだからいいよねぇ)読ませて頂きました。 
 
 そうだ、自己紹介を……、ボクはこのサイトの古くからのROMな者です。いづれ書き込もうと、チャンスを虎視耽々ねらってまして、今回のチャンスを得た訳です。 
 
 閑話休題 
 歴史に『モシ』は「だめぇ〜」って言われますが、ついつい考えてみたくなるもんですよねぇ。 
 んっでもって、「信長公が天下を取っていれば」は、凄く「うひょぅ〜」で甘美な誘惑です。 
# どうして、「うひょぅ〜」かは不明。 
 やはり、よく言われるように、この人が天下を取っていれば、もう少し今の日本は良くなっていたかなぁと、思います。 
 もしかしたら、「天皇制」を廃止してしまったカモ知れませんし、戦後GHQによって「プレゼント」された民主主義を自発的に入手できていたカモ知れません。 
 当然自発的に入手した民主主義は大切にされ、今のような「政治不信」は言われていなかったカモしれません。 
 
 ただ、当時信長公が天下を取った直後、国は安定化し、全ての民の生活水準は向上したのではないかと思います。 
 これによって、学問が一般の者のする所となれば、後は信長公が没して『革命』を待つばかり……。 
 
 ってな考えって、ダメでしょうか?そうだ、ボクって歴史詳しくないんだった。馬鹿ナ話だったら、ゴメンナサイです。 
 
 いやぁ、他人のサイトに書き込む時って、スンゲ〜緊張するぅ。 
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奇妙丸さん 
E-mail:sfuku@mxi.meshnet.or.jp
風柳斉殿、お待たせしました。 
 
八田知家1142-1218 
藤原宗綱の4男。最初の常陸国守護。妹が頼朝の乳母であった為、幕府草創に参加。 
1189 千葉常胤と共に東海道大将軍として奥州征伐に列挙。 
1193 常陸平氏を常陸南部から追い、同地に本貫を下野から移す。 
1199 頼朝死去。元老として幕政にとどまる。 
   右衛門尉から筑後守となる。 
 
八田知重1164-1228 
知家の長子で母は葛西氏。父と共に幕府草創に功。父の官途名を取り筑後を名乗る。 
1204 畠山氏討伐に加わる 
1213 「和田合戦」で弟の知尚が義時側につく 
1221 「承久の変」でも弟が公家側につくが、知重の行歴ははっきりせず 
 
八田泰知1222-1245 
7才で家督を継ぐ。「承久の乱」の後の子供であり乱後処理を巡って幕府と八田氏の間に責任問題があったようである。(知尚の離反か?) 
泰知の事歴は不明。24才で死去。 
 
小田時知1238-1293 
泰知の長子。5才で家督を継いだ為、守護職は一族の宍戸家周に移る(後に回復)。 
筑後姓を改め「小田」を名乗る。1252から10年間、真言律宗の僧忍性と交流。 
そのため大和系石工が移住し、東国における鎌倉文化の拠点となる。 
 
小田宗知1259-1306 
時知の長子。事歴は不明の点が多い。 
 
小田貞宗1283-1349 
宗知の長子。父の死後、弟知貞と相続争いが起こる。守護職は宍戸時家に移る。 
 
小田知久1300-1352 
貞宗の長子。 
1327 陸奥安東氏内乱に、宇都宮氏と出兵。 
1331 「元弘の乱」鎌倉軍に従い後醍醐天皇の笠置城を攻める。 
   天皇の近臣万里小路藤房を藤沢に幽閉する。 
1333 鎌倉幕府滅亡。 
   藤房を伴い、建武政権に従う。 
   一族が雑訴決断所の奉行となる。宮内権小輔に任官。 
1335 足利尊氏挙兵。佐竹氏が北朝に就き常陸守護を安堵される。 
   そのため、小田氏は南朝方として奔走。 
1338 室町幕府成立。 
   北畠親房が小田城に入る。此の地で『神皇正統記』を起稿。 
1341 高帥冬ら北朝の攻撃で降参、以後北朝方として帥冬に従軍。 
1352 上洛し、尊氏より源姓を許され、左近衛中将に叙任する。 
 
残りはまだまとめてないので、後日に致す。 
ちなみに参考は『戦国大名系譜人名辞典・東国編』(新人物往来社)です。 
あー疲れた(;;)。 
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人格1582さん 
永岡慶之助著 上泉伊勢守信綱 叢文社。 
現在購入を迷っている。 
目当ては長野業正だ。 
長野業正の小説があれば手っ取り早いのだが。 
そういえば歴史読本の7月号を購入した。 
大谷刑部の特集だ。 
長野業正の事も書かれていたが、やはり小説化は無理かな。 
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