宇喜多秀家さん 
E-mail:chacha@cc.rim.or.jp
真田十勇士の件です。 
 
そうですね。確かに。そういわれれば確かにそうです。では、ちょっと調べてみます。 
ご指摘、ありがとうございます。 
 
真田幸村(信繁)の件です。 
 
で、真田幸村(信繁)の小説等で、何を1番にお勧めするかですが、 
まあ、 
 
・真田太平記(全12巻)池波正太郎 
 
です。(もう読んでたりして・・・) 
その他では、笹沢佐保、柴田練三郎が、「真田十勇士」という本を書いてます。 
 
今、手元に資料がなくて(お金に困って大半を古本屋に・・・)正確なことは書けませんが、 
また、思い出したら書いておきます。 
 
答えになってなくてごめんなさい。 
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奇妙丸さん 
E-mail:sfuku@mxi.meshnet.or.jp
風柳斉殿へ。 
調べましたので、御覧くだされ。 
 
「小田讃岐守氏治」1531-1601 
小田氏15代、幼名は小太郎、後に入道し天庵。 
16才で家督を継ぐ。その頃は佐竹氏と姻戚の好誼が保たれていたが、以後状況が激変する。 
 
1555 長尾景虎の上野出兵に佐竹氏と呼応。ともに結城政勝を攻めるが失敗。 
1556 結城政勝に敗退、小田城を一時奪われる。 
   宍戸・笠間・真壁・多賀谷などが佐竹と同盟し小田領を包囲。 
1558 佐竹義昭・多賀谷政経に攻められる。 
1562 北条氏康と同盟し、上杉氏と組んだ佐竹に対抗。 
   以後、佐竹義昭・義重に小田城の支城を奪われ続けた。 
1569 太田資正・梶原政景・真壁氏幹に小田城を奪われる。(手這坂の合戦) 
   多賀谷氏の東進で桜川以西も失う。霞ヶ浦の土浦城・木田余城に拠る。 
1573 真壁久幹と和睦(「真壁文書」)小田城回復を目指すが、果たされず。 
1583 佐竹氏に下る。再起を計ろうとするが果たせず。 
1590 豊臣政権樹立(小田原落城)。「戦国大名」小田氏の終焉。 
   娘が、結城秀康の側室であったため召しだされる。 
1600 秀康の越前移封に随伴。 
1601 越前で没。太田善光寺に埋葬。 
 
簡単にまとめたので、間違いがあるかもしれません。もし違うところがあれば言ってください。 
 
でも、苦労したんだな。70才で関東から北陸へ移ったのか。彼も戦国時代の数多い敗者の一人なんだな。 
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奇妙丸さん 
風柳斉殿へ 
「小田一族」ですがもう少しまってくだされ。1日じゃまとめきれん。 
2.3日ほど係り申す。堪忍。 
 
以前「歴史SLG」で津軽為信の小説を紹介しましたが、題名が抜けておりました。 
『津軽風雲録』長部日出雄・富士見書房時代小説文庫、で御座る。 
本日やっと読破致しました。(買ってから2年・・・) 
「会話文が津軽弁で読みにくい」と失礼な事言いましたが訂正致す。後半になるにつれ「津軽弁」にわざとした作者の意図がわかりました。 
京都に出向いた際、為信ら津軽侍の言葉を軍師の沼田祐光が通訳するという場面が御座った。 
ここまで読んで京都人の拙者はうなってしまい申した。 
「確かに通訳が必要だ」と・・・。 
何故そう思ったか一部会話文を抜粋致す。 
 
「その、まずまず、づのが気になるんだね。ちゃんと喋って呉(ケ)ろじゃ。背中(ヘナカ)の手の届がねえとごろさ、毛でもくっついでる様(エンタ)で、痒(ケ)くて駄目(マイネ)。」 
 
ここが一番難しい所です。いまだによく解りません。 
しかし、この作品は作者が書いた津軽の歴史小説三部作の一つで意図的にやったのだと解説にもかいてありました。 
歴史小説では珍しい手法です。 
でも、よく考えたら「下天は夢か」も方言だらけですね。 
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徳川信康さん 
E-mail:masa_t@sh.rim.or.jp 
HP:これすて亭
こんにちわ。本当にご無沙汰しています。 
『徳川家嫡男の信康でござるっ』よ(^^) 
 
歴史チャットへ通ってた頃が懐かしいですね。 
ところで、すっかりHPの雰囲気がレベルアップしましたね〜。 
ちょっとびっくりしました(^^; 
それに、あいかわらず戦国もので盛り上がっていますね。 
ここの常連の方々、はじめまして信康でござる。 
これからは度々顔を出したいと思っていますので、よろしく。 
 
真田十勇士の話で盛り上がっているみたいですが確かに実在のモデルがいたみたいですね。 
どっちにしても豊臣の末路があまりにも悲劇的だったことでできあがったものだとは思いますが。 
もうすっかり父上(家康)は悪者というか、翻弄されっぱなしで(^^; 
でも本当に真田幸村という武将はただものではなかったようですね。 
『幸村さえ徳川家に仕えておれば』と父上も思ったでしょう。 
でも真田家は確か徳川家に仕えてた信之の功で明治維新まで永く続いたそうですね。 
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才蔵さん 
今回は、由利鎌之助について、少々。 
 
「真田三代記」(講談のタネ本になったそうな)の解説本を読んだところによると..... 
 だたし、「真田三代記」は元禄時代後に書かれたものらしいので、眉に唾してお読み下され。(民衆の徳川幕府に対する反感に影響されているやも知れぬ) 
 
 信長公の後継者争いが起きていたころ。 
 秀吉に加勢しようと真田勢は信濃を南下し、野田城下に入った。 
 城主の菅沼新八郎(家康方)は、これを妨げようとして家臣たちに計ったところ、菅沼の家来たちは真田の上田合戦の折りの奇略を聞いていたので、誰も積極的に発言せず、会議はうやむやのうちに終った。 
 城内には、近隣に聞こえた由利鎌之助基幸という豪傑がいた。この男が老臣の並河玄蕃の止めるのも聞かず、密かに城主新八郎の命を受けて、兵をつれて道をさえぎった。 
 その折に、幸村は鎌之助の豪勇と妙計を見て、家来に欲しいものだと考えた。 
 穴山小助に一計を授けて、一騎打ちさせ、鎌之助を馬もろとも落とし穴に落とし込んだ。同時に由利勢を囲んで捕虜にした。 
 真田勢は鎌之助と捕虜を連れて、白昼堂々と野田城下を通って行ったが,城中からは一筋の矢も射出されなかった。 
 その日の夕方、白沢というところに野陣を張った幸村は、生け捕りの百余人の命と引き換えに、鎌之助を口説いた。 
 承知した鎌之助を加えて、真田勢は北近江に向かった。 
 
ということです。では、また。 
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奇妙丸さん 
E-mail:sfuku@mxi.meshnet.or.jp
多重人格1582殿へ 
うーん、大言壮語する割には大した反論ではないような気もするが・・・。 
すいません。拙者の語学力不足で誤解を招いたみたいです。 
別に津本さんの作品が読みにくい訳ではなく、会話文に方言を使用しているのが「津軽風雲録」だけではない、と言いたかったのです。 
訂正しておきます。 
会話に方言を使用するのは「雰囲気」や「地方性」をだす効果があると思います。 
そういった効果を両氏は狙ったのだと思います。 
 
複数のハンドルネームを持つことに別に反対しませんが、此処で言う必要もないと思います。 
その前に人に不快感を与える様なメールを送るほうが問題です。 
こういった場所はかえって人間性がでますね。 
人の醜態は見る人の方が羞恥心が強いです。 
(恥ずかしながらやる漫才は見るに耐えない様な物です) 
自分さえ楽しければいいと云う考えはやめて、このサイトを見る人の情報源になるような事を心掛ける様にしてください。 
どうせなら、便利な場所にしましょう。 
せっかくHiro,KさんがこのHPを作ってくれたのですから・・・。 
 
多重人格1582さんに質問ですがその書籍の内容はどんなものですか? 
 
PS 
マモル殿、この間の「戦国衆」では行き違いでしたな。 
だいたい何曜日の何時におられるのじゃ? 
隆慶一郎について語り合おうぞ。 
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