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其の23

其の25




歴史評定 のお話 其の24


大膳大夫 隆元さん
E-mail:
jo6-life@nsknet.or.jp

帰蝶姫の後半生.その1

 斉藤道三の娘帰蝶については、織田家輿入れまでは記録にあり父に宛てた手紙もいくつか残っているようじゃが、その後ふっつりと歴史から消えてしまう。そこで帰蝶姫の後半生を想像してみた。

 帰蝶姫が自らの意思で信長公から遠ざかったのでは?某はと考えておる、原因は亭主殿の女性関係じゃ。帰蝶姫に子がなかったと伝えられるし、疎遠になったから子を為せなかったか?、あるいは子を為せないことを気に病んで身を引いたか?微妙なところじゃ。小野小町の例もある故、性の不一致や性に関わる障害が生じた疑いもあるが、そんなことは今さら詮索しようがない。
 因みに信忠殿,信雄殿などを産んだは家臣・生駒家宗が娘;吉乃、実家に戻ってきとった後家じゃそうな。美貌という伝承がない故、容姿は十人並みでも大人の色香があったのじゃろ。帰蝶姫が如何に聡明な美少女であろうとも、付き女中が笑い絵(春画。武者供が縁起を担いで?戦陣に持参したと云う)を見せつつ男女の道を教えても、殿御が未熟者なら分が悪い。ましてや、せっかちな信長公である、反応の思わしくない美少女より、リードも巧みな熟れた女に傾いたとて致し方あるまい。
 ともかく帰蝶姫が1子を為すまで励めば別の展開があったものを、そこまでの根気が信長公になかったのが拙かった。吉乃の噂は帰蝶姫にも漏れ聞こえる、彼の姫とて一方ならぬプライドがある。しかし男女の道は恋慕の情ばかりにては上手く行かぬ、経験も重ねずばならぬし時として演技も必要じゃが、こればかりは容姿と教養と機転に恵まれた彼の姫にも手に余ったのじゃ。心が屈折すれば肢体(からだ)も硬くなり、たまさか訪れた信長公は不興のまま帰ることに相なる。斯くして閨(ねや)は日を追って間遠くなっていったが、それもまた致し方あらざるところじゃった...。や、これはしたり、この掲示板に似つかわしゅうない話をしてしもうたわ。

 ま、何じゃな。閨を分かちて(夫婦生活が絶えて)後、帰蝶姫からпAお暇をいただき、自儘(じまま)に暮らしとう存じますoしたる方が、彼の姫らしゅうて宜しかろ。そして僅かな供を連れて、人知れず城(おそらくは岐阜城)を去っていった...。
 帰蝶姫の人となりについて。例えば信長vs道三、会見の場in正徳寺では、信長公は舅殿の覗き見を見越したような見事な早変わりを見せたが、これも帰蝶姫が入れ知恵し、装束も用意したと仮定すれば辻褄が合う。太田牛一の記すところ装束の出所を近臣すら知らなかったらしいし、帰蝶姫の言葉なればこそ傲慢な信長公も聞き入れたであろう。また信長公ならば、予め舅殿の出方を彼の姫に質すことを忘れぬに違いあるまい。帰蝶姫とて亭主殿を父に認めさせたい気持ちや、奇策に長けた蝮の娘として自負や茶目っ気がなかったとは考えられぬ。つまりは悪戯半分の内助の功じゃ。
 救いは、信長公が帰蝶姫を憎み疎んじたという伝承がないことである。伝承がないからと云って証拠とはならぬ、左ありとて、そうでなかったと某は信じたい。
それに安土城が焼け落ちて後、帰蝶姫と思しき女性が何処よりか現れ、剃髪して庵を結び、そこで没したとする伝承もある。
 憎み疎んじられた女が、亡き亭主の供養に余生を費やすとは思えぬ。彼の尼僧を帰蝶姫とするならば、信長公を最も理解していた女性として夫の亡骸に等しい安土城の廃墟に寄り添って余生を全うするは、むしろ自然に思える。何となれば安土城こそが、若年よりパフォーマンスを続けた信長という表現者の最後にして最大の作品であり、それを知る女性がいたとすれば帰蝶姫を措いて他にない。信長公とのセックスレスな関係が、帰蝶姫は純粋な情愛と深い理解を育んでいたということになる。

 あるいは信長公は夫の務めを折々に果たしていたかも知れぬ。その場合、不幸にも帰蝶姫は不妊症だったことになる。もし1人でも男児がいれば、別腹とはいえ奇妙丸(信忠)殿や茶筅丸(信雄)殿も相応に愛おしむことも叶うたろうが、子を為せぬ正室として苦しんだのではあるまいか?。
 正室である以上、側室である吉乃や坂氏の女(むすめ)より後宮の序列は明らかに上であり、別腹の子らに対しても母として接し得る立場ではある。おそらく気丈な女性ゆえ、城内を遊び回っていた奇妙丸殿や茶筅丸殿が近くを通れば招じ入れて可愛がり、内心の寂しさを紛らわしたこともあったろう。とはいえlという子らの呼びかけに、仮そめにも蝪と呼んでくれたなら...と、帰蝶姫の心の傷は深まるのである。
 しかも吉乃や坂氏の女にすれば、子らが帰蝶の下へ遊びに行くは快きはずなく、その思いは言葉にせずとも面(おもて)に現れ、子らの足は次第しだいに帰蝶姫から遠のいてゆく。残るは子を持たぬ欠落感と子を為せぬが故の劣等感、信長公と相愛なればこそ、拠ん所ない切なさは増したであろう。この場合も、帰蝶姫は城を去らざるを得ない。

 さて帰蝶姫が隠遁するならば、永禄11年(1568年)の晩秋から、京で政務に携わっていた明智光秀の知行地、それも将軍・足利義昭から給わった知行地が最も有望であろう。この時期、光秀は信長公と将軍家の双方から知行を受けていたとされており、将軍家から給わった知行地は京の近郊にあったに違いない。
 この永禄11年は、六角氏や三好党を駆逐し、上洛を果たし、将軍家とも蜜月期にあり、信長公にとって希望に満ちた年だった。公を大切に思う帰蝶姫が公の下を去るタイミングは、危機に陥っていれば心配でもあり去りづらい、やはり栄光の年であった永禄11年が最も相応しいであろう。
 なお堺は自由都市とは云え、三好党や石山本願寺との関係が取り沙汰されており、帰蝶姫が拉致され人質にされる危険がないとは云えぬ故、信長公が許すまい。
京の市中も、まだ三好党の活動範囲であるから安全ではない。また岐阜,清洲,那古屋の各城下や津島,熱田門前町などは、安全な反面、顔見知りが多すぎて気詰まりがする。その点、光秀の知行地ならば身分の秘匿や内密な身辺警備が容易であろうし、従兄である光秀が面倒を見るなら帰蝶姫も気安かろう。

 知行地の管理人の屋敷内か隣接地に1軒家を借り、輿入れの時から従ってきた気心の知れた女中1人2人と共に住んでいたのではないか?。信長公からの仕送りと光秀の庇護、それに当時の大都会・京の都心に近い上に閑静な住環境、洗練されたシングル・ライフを送るには申し分のない条件である。
 出産と育児を知らない帰蝶姫は、30代半ばという実年齢よりも若々しく、少女らしさを残したチャーミングな熟女であったと思われる。さすがに株価急上昇の大々名・織田信長の夫人であることは明らかにできないので、さる御大家の後家とでも近所には触れ込んでいたのだろう。

 3年後の永禄14年(1571年);将軍義昭が信長公への敵対行動を重ねたため、光秀は幕臣を辞しており、将軍家から給わった知行地も返しているはずである。同時に光秀は坂本築城に着手し、1年後に城の形は大概(おおよそ)でき上がったらしい。これに伴い帰蝶姫も、京の近郊から近江国・滋賀郡にある明智家中の仮宿舎に移り、元亀4年(1573年);将軍義昭が河内国・若江城に退去して京の都から戦乱が遠ざかるまで、そのまま坂本城に住んでいたとしても不自然ではない。光秀をはじめ、母方の親類や同郷の者が明智家中に多かったから、帰蝶姫にとって居心地は悪くなかっただろう。
 ただし天正10年(1582年);山崎の合戦の翌々日に坂本城が落城しているが、それまで帰蝶姫が坂本城にいたとは思えぬ。元亀4年(1573年)の8月、天正元年と改元されて以降、帰蝶姫は織田家によって治安が回復した京の市中に移り住んだのではないか。少なくとも、その方が某の論旨と矛盾しない。
 帰蝶姫がどちらかと云えば"世話好き"な性分であったと仮定すれば、京の市中で手習いや手紙の代書代読を生業(なりわい)にして、孤児を集めて養っていたことにすればフィクションとしては面白かろう。

 そして帰蝶姫が本能寺を定宿とする信長公を訪問する、あるいは信長公の呼び出しに応じる位のことは何度かあったかも知れぬ。それが目撃され、本能寺で最期を共にしたとする説の下地になったのであろう。公ご自身は離縁したつもりはなく、元々他人構わずなご性分であらせられる故、政務に差し障りなくば帰蝶姫と会うことをひかえらるるとは思えぬ。ただし少しは照れがあり、ご近習の衆でなく寺僧を遣わせられ、また周囲にも口止めをお命じになったことが、記録に残らなかった原因であると想像できぬでもない。

 帰蝶姫と明智光秀との関係にも想像を逞しくしてみたい(論及という言葉は畏れ多くて使えない)が、それは次回に譲りたい。      左様ならば失礼致す。

伊勢新九郎盛時さん
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takozawa@tky2.3web.ne.jp

帰蝶姫のその後

織田信長の正室・帰蝶姫(濃姫)の後半生に付いて、歴史から消えてしまう、とおっしゃっていましたが、最近の研究では帰蝶のその後がある程度判明しています。以下、帰蝶姫のその後に付いて書かせて頂きます。

本能寺の変以前については定かではありませんが、帰蝶はその後は織田信雄(信長次男)の庇護を受けて尾張国内で化粧料を与えられ、安土殿と呼ばれていた様です。これは「織田信雄分限帳」に書かれています。
後の織田信雄改易後の消息は不明ですが、1612年7月9日に京都で没し、大徳寺総見院に葬られたそうです。
以上、簡単ですがお知らせします。
尚、この件は、講談社刊「クロニック戦国全史」に書かれています。

大膳大夫 隆元さん
E-mail:
jo6-life@nsknet.or.jp

斉藤道三 vs 織田信長

 ライバルっつーことだったら道三vs織田信秀だと思うが、ことによると道三は美濃・尾張連合王国を構想していたかも知れぬ。云わでものことじゃが、某の話は(うまくゆけば)論理的帰結かも知らぬが、具体的証拠に欠けるとことわっておかねばならぬ。

 注目すべきは斉藤義龍のクーデターじゃ。廃嫡されそうになった義龍が地位を守るために機先を制してクーデターを起こしたとする説を、某は疑っておる。思うに道三と信長が親密になった頃から道三は政策を転換し、それが美濃の旧勢力には既得の利益を脅かす行為と映ったのではないか?。それ故、旧勢力は義龍を推戴して政権交代を図ったのが真相ではないだろうか。
 道三の長男・義龍の異母兄にあたる長井道利という人物がおり、旧勢力の筆頭である長井直利の下に入嗣したらしい。道利は後に義龍の子・斉藤龍興の家老を務めておるので、道三vs義龍のクーデターでは義龍の側についたに違いない。すなわち道利にも実父に叛(そむ)かざるを得ない理由があった、とすれば義龍のクーデターには廃嫡云々以上の背景があったと考えられる訳じゃ。
 信長は独創的な人物として知られるし、それに異を唱えるつもりはない。とはいえ信長にとって道三は師匠のような存在だったし、道三は果たせなかった夢を信長に託したのかも知れぬ。

 義龍クーデターの直接の原因が義龍廃嫡であることは、疑うべからざる事実であろう。しかし何故?と疑問が生じる。道三は義龍の安全や教育にあれこれと気遣い、義龍もなかなかの器量人に成長し、早々と家督さえ譲っておる、それを何故この期に及んで廃嫡か?。通説の土岐頼芸落胤説も怪しいが、そんなことは無関係に道三は新九郎(義龍)を世嗣として認め育て、嫡出子として"義龍"と名乗らせておる。旧主頼芸の胤(たね)が気に入らぬなら、長男道利と同じく養子に出すか西村姓でも継がせ、諱(いみな)も例えば"龍義"のように庶出子として差別したはずじゃ。因みに道三は入道前は秀龍と名乗っておった。
 もう1つの"?"は道三の遺言状じゃ。この遺言状は江戸期の偽作とされるが、その下地になった伝承があったに違いない。また天文22年(1553年)の正得寺会見の後、道三は「いずれ儂の子らは信長に臣従せざるを得なくなる」と侍大将である猪子兵助に語ったと伝えられる。
 さらに道三は、天文23年(1554年)に信長が水野忠政救援に赴いた際、那古野の城番として援兵を送っている。
 これらを総合すると道三は、まず織田−斉藤同盟を強化して互いに支援しあって国内の統一を進め、わが子の誰よりも優秀な信長に同盟の主導権を握らせようと企んだのでは?と推理できるのじゃ。その方が子孫も美濃国も安泰と判断したのじゃろ、嫁に遣(や)った帰蝶が織田家の世継ぎを産むであろうから尚さらじゃ。

 天文20年(1551年)以降、織田信秀没後の尾張は、岩倉城に拠って上四郡を支配する織田信安ほか、一旦は父信秀がリーダーシップを握った下四郡も清洲城の織田信友および坂井大膳や鳴海城の山口教継の離反,弟信行や兄信広の謀反など、信長にとって統一と程遠い状況じゃった。美濃も表面的には道三が掌握しておったが、道三与党と云えるのは稲葉氏,安藤氏,明智氏など一部の中小豪族に過ぎず、長井氏を除く旧勢力の多くは未だ信頼できない状況であり、統一されていない点では尾張と大同小異じゃった。
 したがって道三が信長を後押しして尾張を統一させるとともに、信長に背中を守らせて美濃の旧勢力を各個に骨抜きにしたり攻め潰したりしようと考えるのは自然な成り行きじゃ。また信長に濃尾両国のリーダーシップを握らせるつもりならば、義龍が優秀なだけに当主に据えておくと障害になる。あるいは信長主導を義龍に諒解させようとして反発され、致し仕方なく廃嫡を決めたのかも知れぬ。

 もっとも信秀の没後と生前とは状況が異なる。生前は、信秀は美濃国全体にとって大きな脅威じゃったし、そうであればこそ美濃の旧勢力も道三のリーダーシップに従った。天文18年(1549年)、愛娘帰蝶を"大うつけ"に呉れて遣ってまで信秀と同盟したのもそのためじゃ。
 余談じゃが、道三が信秀の次に脅威と考えておったのは武田晴信だったのではないか?。その根拠は、遅くとも前年の天文17年(1548年)頃に義龍の嫁として浅井久政の娘である近江の方を迎えておる。その目的は2つあり、1つは当時は信秀に属していた大垣城を浅井氏に牽制させる。もう1つは越前の朝倉氏が旧守護職土岐政頼の姻戚であることを口実に美濃国に度々干渉してきたが、その朝倉氏に不干渉を約させる伏線として、朝倉氏と親密な浅井氏と結ぶことにあった。美濃と北近江の間は伊吹山系が遮っており、これまで領土紛争も直接的脅威もなかった故、某には政治的な配慮以外に目的が思い浮かばぬのじゃ。
 つまり西進してきた武田勢と美濃−信濃国境で対決することを想定し、大垣城や朝倉氏という後顧の憂いを予め絶っておこうという狙いがあったと某は思う。なお同じ年に晴信は松本盆地と木曽谷を支配する小笠原長時を塩尻峠で破っており、人を観る眼がある道三ならばこそ晴信を将来の脅威として位置づけたとしても不思議はない。

 話を元に戻す。強敵信秀の急逝が、逆に道三の美濃国に於けるリーダーシップを揺るがしたと某は思う。なぜなら信秀という大きな脅威があったからこそ、悪辣で手に負えぬ"蝮"を盟主に頂かざるを得なかった。その脅威がなくなったら最早(もはや)蝮など無用有害、倅(せがれ)の義龍の方が余程扱いやすいと美濃の旧勢力は考えたのじゃ。また道三の早過ぎる隠居の理由もそこにあったのかも知れぬ、義龍に社長のイスを譲って旧勢力を油断させ、自身は会長として"院政"を揮うという肚じゃ。
 そうやって表面的な統一を維持しながら旧勢力を弱体化させ斉藤氏に服属させる準備を進めておったが、どうしたものか道三と義龍は政策的に対立してしまったのじゃ、思うに旧勢力を弱体化させる点と信長を濃尾両国の盟主とする点で。
 おそらく義龍は道三ほど冷徹ではないから旧勢力が斉藤氏に従うことを楽観視しており、旧勢力の弱体化は美濃国全体にとって不利益と判断したのじゃろう。また器量相応の自信もあったから"大うつけ"の信長を盟主に仰ぐことなど義龍は許容できなかったのじゃろう。
 さらに道三から直に聞かされたか義龍から打ち明けられたかした長男の長井道利も義龍を支持した。道利は長井氏の養子として長年過ごしてきたため、斉藤氏の支配力を強めるために旧勢力の独立性を弱めるという道三の思想に感覚的についてゆけなかったのじゃろう。つまり本来的に独立性を備えた家臣すなわち国人・地侍に担がれてこそ、長井家当主ひいては封建領主の地位が保たれ得るという意識が強かったのじゃ。加えて長男たる自分が養子に出されて弟が家督を継いだだけでも内心割り切れない想いがあるのに、この上、他国の者に臣従せよとは、如何に父の意向とはいえ受け入れ難いと感じても不思議ではなかろうて。
 そこへ持ってきて、信秀没後、旧勢力は道三に対する服属関係を弱めてきたため相対的に義龍の指導力が高くなっていったのじゃ。

 そして弘治元年(1555年)の11月、義龍社長は、成人して器量も自分に次ぐ2人の弟すなわち孫四郎龍重と喜平次龍定を謀殺し、道三会長の代表権否定を美濃国中に明らかにした。かつて道三与党であった安藤氏や稲葉氏も大勢に付き、もっとも道三と親しい明智氏も中立を保った。それでも落ち目の会長の下に美濃の兵の1/6が集まったというから、腐っても、否、老いても"蝮"大したものじゃ。
 余談じゃが1/6の兵が集まったことからも、道三が2代目だったことが窺われる。これが初代の松波庄五郎と同じ人物だったら、道三の兵力は手勢のみで美濃全体の1/10にも満たなかったじゃろう。
 翌、弘治2年(1556年)、道三は長良河畔の決戦で義龍に討たれ、濃尾同盟は反故になった。その後、義龍は兄道利に明智光安を討たせ、信長の正室帰蝶の外戚にあたり信長と結ぶおそれがある明智氏を排除した。また義龍が長子に"龍興"と名乗らせたところを見ると、浅井久政氏の女の腹である龍興に家督を継がせるつもりはなかったようじゃ。朝倉氏の干渉の経緯を知っておったから、後々浅井氏に干渉される余地を残したくなかったのじゃろう。
 義龍が早世したため、意に反して龍興が家督を継いだのじゃが、実は義龍には斉藤新吾(あるいは新五郎)長龍という弟がおった。後に織田信忠の組下として一軍を率い、飛騨経由で越中に攻め入って上杉勢と激しく戦い、最後は二条城にて信忠に殉じたとされる人物である。この長龍が家督を継いでおったなら斉藤氏の将来も違ったかも知れぬが、そうならなかったのは道利が実権を握りたかっため、龍興が元服を済ませていたことを理由に長龍の家督相続に反対したからとも考えられる。

 道三敗死から11年経った永禄10年(1567年)、龍興は北近江に奔(はし)り信長は美濃国と稲葉山城を手中にしたが、明智光秀の本能寺の変を除き美濃衆が信長に叛くことは1度としてなかった。これは予め西美濃3人衆など有力豪族を調略していたためと見られておるけれども、果たしてそれだけが理由であろうか?。道三の誉め過ぎと誹(そし)られるだろうが、道三の"濃尾連合王国"構想が11年の時を経て美濃衆に理解され容認されたという可能性を某は否定しない。

 なお道三こと斉藤山城守は松波庄五郎の子息であり、美濃の"国盗り"は親子2代でなされたとする説を、某は支持する。
 なぜなら道三が弘治2年(1556年)数え63歳で没しており、逆算すれば生年が明応3年(1494年)になる。少なくとも記録では永正12年(1515年)頃、松波庄五郎こと西村勘九郎が長井新左衛門尉を名乗っており、数えで21歳だったことになる。
 松波庄五郎は、北面の武士松波氏の庶子として生まれ、京・妙覚寺で修行を終えてから油商人・奈良屋の婿になり、その後に土岐氏に仕官したことになっておる。
21歳までに、それらを全て済ませてしまうのは流石(さすが)に無理であろう。また年齢に対する感覚が現代とでは5歳から10歳の開きがあったとはいえ、戦国時代でも21歳はまだまだ少壮であり、美濃国でNo.2の名家の姓を賜る程の功績をあげていたとは信じ難い。したがって道三は、松波庄五郎こと長井新左衛門尉の子息だったと考えられる訳じゃ。

以 上

 結びに代えて。景虎殿に信忠殿、こーゆーのを見てきたよーなウソと云うのじゃ!、真に受ける前に事実関係の確認をお忘れ召さるな。        乙三 再拝
元就さん
E-mail:
mokorin@kyoto.xaxon-net.or.jp
HP:萩原孝正’dream

義龍謀反?

 お初にお目にかかります。

 斎藤道三は長男義龍に家督を譲って隠退していたが、義龍が土岐頼芸の子であるという噂があったため道三は機を見て義龍を除き、実子を家督に据えようと考えた。それを知った義龍が先手を打って弟2人を謀殺したため、ついに父子の武力衝突になったというのがよく言われている話ですが、それは根拠のない俗話で、事実は家臣団の支持を失って隠退させられた道三が、再起を図って挙兵したらしいですよ。


To 隆元殿
 君は船、臣は水にて候。水よく船を浮かべ候ことにて候。船候も、水なく候えば相叶わず候か。

 されば無念なる事に候。山城が子共、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候。

其の23

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