Back to 歴史SLG Back to 歴史評定

其の26

其の28




歴史評定 のお話 其の27


仁礼小一郎さん
E-mail:
ryok@ryucom.ne.jp
HP:気分は下克城

「影武者徳川家康」TV放映

ども、しばらくご無沙汰していた仁礼です。
さて、昨日ふとTV雑誌を見ていると「影武者徳川家康」のドラマがやっているではありませんか。
キャストは高橋英樹、片岡鶴太郎など....いったいどうなんでしょう?
誰か見た人いませんか?是非感想をお聞きしたいのですが。

山口某さん

「影武者徳川家康」みました

 こんにちは山口某です。
 この前に1回だけみました。この話自体は数年前某少年漫画雑誌で連載されていたので見たことがある人がいるかもしれません。僕はこの漫画のイメージが強く残っているので家康はいいとしても甲斐の六郎や島左近のキャスティングがどうもしっくりときません(私見ではありますが。)
 でも原作の小説は読んだことがないのでこれからの展開が楽しみです。(漫画の方は、二郎三郎と左近があったところで終わっているからです。)

Jokerさん
E-mail:
joker007@cocoa.ocn.ne.jp

今 島左近が熱い!!

今 週間少年ジャンプで連載してた「影武者徳川家康」の続編が月間少年ジャンプで連載中!! 題名も「SAKON−戦国風雲録−」変更し 主人公の島左近に変更!!
内容もなかなか充実してて 面白さ抜群!! 柳生宗矩も出番が多いぜみんな一度は読んでみな ハマること間違いなしだぜ!!

丞相張角さん
E-mail:
yukitaketakahasi@msj.biglobe.ne.jp

武侠小説ゲーム化推進計画

えー、今回書きたいのは、この前またガイドブックが出版された金庸氏の武侠小説に関してのことです。
僕が初めて武侠小説を読んだのは昨年のことで、しかもその時読んだのが「書剣恩仇録」ではなくて、2作目の「碧血剣」でした。
まあ、今回のお話にこんなタイトルをつけたぐらいだから、さぞハマったんだろうと皆さんは思うかもしれませんが、正直言って「・・・なに、これ・・・」というのが読後感でした。
当時の感想を正直に書きますと、あかほりも裸足で逃げ出すようなご都合主義な展開と、今時NECアベニューだってやらんぞと言いたくなるようなヒロイン二人のキャラクターに呆然となって、八つ当たり気味に「こんな代物を書く輩を誉める田中先生の感性って一体・・・」と、田中芳樹先生の感性まで疑った記憶があります。
で、それ以来僕の頭の中では「金庸=中国のあかほり」という図式が確立していたわけですが、数日前にまた金庸ガイドブックが書店に並んでいたので、「せっかくだから」立ち読みしたわけです。
で、気づいたのは、これは小説として読むからいけないんだということ。馳星周さんが対談の中で北斗の拳世代なら云々という話をしていたのですが、実際、日本人にはコミックなりゲームなりに変換してから渡したほうが、よほど魅力が伝わるんじゃないかと思ったわけです。
承志くんや青青ちゃんみたいなキャラをいまどき小説で書かれると逆に赤面してしまいますが、ゲーム内ならまだ存在してるし、それにゲームなら、あのご都合主義爆発の上に数だけ多い戦闘も「仕様です」ということで許されます。というか、あの展開は小説というジャンルで扱うより、ゲーム化したほうが数百倍面白くなるんじゃないでしょうか。
さて、そういう訳で武侠小説をぜひともゲーム化してほしいと思っているわけなんですが、僕も歴史SLG愛好者の一人として、光栄に動いてもらいたいと思っているわけです。それも、リコエイションシリーズ最新作として。
知名度は抜群だし、いまや流行りものに成り果てた封神演義よりもゲーム化する価値はあると思うんですけど、みなさんどう思いますか?
追伸
やたら真面目なナポレオンの話の後にこんな話をしてすみませんね。

武藤喜兵衛さん

曾根野匠?

初めて投稿いたします武藤喜兵衛と申します。
私が名前で使っている武藤喜兵衛は、真田昌幸のことですが、甲陽軍鑑のなかで武藤喜兵衛と並ぶ人物として出てくる曾根野匠という人物はどういった人なのでしょうか?
知っていらしゃる方がいましたらぜひお教えください。

戦武堂さん
E-mail:
y-skm@mwd.biglobe.ne.jp
HP:戦武堂

曾根内匠助では?

私も初めて投稿させて頂きます戦武堂と申します。
「曾根野匠」とは「曾根内匠助」の事ではないでしょうか?
曾根内匠助は初め孫次郎。のち内匠助、下野守。実名は昌世です。
内匠助は真田昌幸とともに武田信玄の奥近習衆をつとめ、信玄より直に甲州流の軍学・築城術を学んだとされる人物です。
武田氏滅亡後は徳川家康に仕えますが、のち蒲生氏郷に召し抱えられ、会津で三千石を領しています。
会津に入った氏郷は名築城家として名高かった昌世に黒川城(のちの会津城)の改修を命じ、昌世は甲州流の築城術を駆使して縄張りを行こないました。

磁石さん
E-mail:
beeky@tecnet.or.jp

織田幕府の可能性について

以前から気になっていたのですが、この場を借りて質問です。

幕府を開くことができるのは源氏の系譜にある大名だけなのでしょうか?

何かの本で読んだのですが、信長は本能寺の変直前に、征夷大将軍への就任を打診されたらしいです。
でも、怪しいとはいえ、信長は桓武平氏の出と称していたはず。
家康は幕府を開くために清和源氏の出自と称していたし、秀吉は平氏を名乗ったために幕府を開けなかったという話しも聞いたことがあります。

平氏の系譜である信長が征夷大将軍に就任。そして織田幕府を開く。
なんてことは有り得たのでしょうか?
それとも眉唾の話しなのでしょうか?

(追伸)
でも信長だったら幕府を開いて封建制に戻すより、象徴天皇制の元での中央集権制。
ひいては絶対王政に持ち込むだろうなあ、という気もしますが。

暴れん坊張飛さん
E-mail:
isin@din.or.jp

織田幕府はなかったのでは?

超久しぶりの暴れん坊張飛です。 Hiro.Kさん御無沙汰しております。

私は、織田幕府はなかったと見ています。彼は平清盛のように太政大臣になって、天皇を操り自分で政治を支配していたのではないでしょうか?そして自分の一族を高い官位に就任させる。しかしこうすると、不満を持つ地方の有力者がでる。そこで秀吉、家康、利家、長秀もしかすれば 光秀等の信長派の優れた行政官を、重用してそれをまとめるのが信長だったのでは? そして勝家や滝川、池田、成政らを軍事に回す。 しかしそうすると信長の死後勝家と秀吉が対立するでしょう。これを信忠がうまく統率できるか否か。
私は、秀吉が、信忠を利用し勝家を倒すでしょう。

とかなり勝手に発展させてしまいました。 想像は難しいですね。 他の方の意見をお待ちしてます。

マモルさん
E-mail:
nobunari@tky2.3web.ne.jp
HP:歴史IF城

源平交代論について

マモルで御座る。(久々!)

源平交代論は小説家に流布している論理であって、実際はかなり否定されてます。
徳川家康が源氏を称したのは永録九年(’66)であり、前年に足利義輝が暗殺されている事から考えて、家康が天下獲りを目指したのであればわざわざ源氏を名乗る事は無いと言う事になります。ぢゃあ何故源氏姓にしたのか?家康は同時期に三河守に補任されている事や、三河一向一揆が終わったばかりであると言う事から、三河統治に源氏姓が必要であったんでは無いか?
三河は鎌倉期には足利の分国、室町になると一色・細川などの領国となっており、国人士豪だと吉良氏などの清和源氏が占めています。
そこで、家康は三河統治を円滑にする為、源氏姓に改姓したんだそうです。

ま、源平交代説の論拠が…「秀吉は足利義昭の養子になって将軍になろうとしたけど拒否された。」と言う話ですからね…この出典が「豊臣秀吉譜」であり、これは後世の編纂物である為信用に欠けるそうですよ。

最後になりますが、拙者は信長の征夷大将軍就任は有り得たと思ってます。
(天正十年(’82)に征夷大将軍か関白か太政大臣か?の三職推任をされています。これは一説によると信長が望んだらしい。)
もしくは…三職推任の裏には三職兼任(征夷大将軍兼関白兼太政大臣)があったかも?
其の場合、秀吉のような半ば王政復古でも無く、家康のような幕藩体制でも無く、全く違った支配体制になったかも?

うわ…夢が広がる〜…
(参考…「武家と天皇−王権をめぐる相克−」今谷明著 岩波新書)

月影龍樹さん
E-mail:
darkpent@wa2.so-net.ne.jp
HP:史傳書房

Re:源平交代論について

 ども、月影龍樹です。

 家康が源姓を名乗ったのは、祖父の清康が世良田氏(源姓)を名乗ったからだと云われています。

 では、なぜ、清康は世良田を名乗ったのか。
 これは、俗に十八松平家と云われるように、分家を数多く輩出した松平家はその統制に苦慮しており、清康は宗家として、貴種である源姓を名乗ることによって統制をより強化しようとしたと考えられています。

 これに因んで家康は松平氏も源姓であるとして、得川氏(新田氏の分流)の流を汲むとして徳川となのった様です。

 源平交代論自体は、さほど問題にされていませんが、朝廷自体は、源姓以外に(皇族を除いて)前例がないので拒否するという可能性はあるのですが、時の権力者である信長が要求すれば与えたでしょう。

BOOさん

ちょっと気になったので

源平交代説というより源平籐の血筋についてなんですが、三河の国守がキーワードです。
松平家は只の土豪に過ぎない家柄のない家系であったために三河の国守になれない為、没落貴族で藤原家の家系の者から藤原の家系を買い取りました。その様によっぽどの特例(武力による威圧)ではない限り血筋を超えた官位を得る事は出来ないのです。清康自ら決して源氏を名乗ってはいません。源氏ではなく藤原の血筋を買い取りました。
これは戦国末期ですら例外では有りません。
例えば官位を得るのに、農民で家柄が有るはずの無い福島加藤は藤原の家系を買い取ったりしていました。
国守(従5位以上の官位)は源平籐橘の出身でないとなれないのです。
ですから当時没落が激しい藤原家の家系は売り買いされていた様です。
また源氏は易々と血筋を手に入れることが出来ない足利の時代であり、藤原家は国守になり易い家柄で有るために松平家は藤原の血を選んで買ったのです。
当時国守になることは守護職との対立に当たっては非常に威信の関係上必要な事だったのです。
そして松平は藤原氏であると朝廷に出されているため、無理難なく将軍職を得るには源氏の家系が必要なため、世良田というものの子孫と言うことを作り上げたのです。
織田家が平氏を名乗ったのも守護職斯波に対立するために、(織田は神官家なので本当は物部・石上系の血筋と見られる)とった処置であろうと推測されます。徳川は推測でなく事実です。
月影さんは徳川家康がそう思わせようと努力した事にまんまとだまされています。
400年近くたっても月影さんの様に考えてくれるように家系のトリックをしている家康はホント凄いです。

二本松 義継さん

源平交代思想について

 私が大学で受けた、日本史の概説では、月影さんの言っていることを授業でやりました。学者の間でも、そう思う人とそう思わない人がいるようですね。
ところで、源平交代思想について少しだけですが、小和田 哲男(静岡大学教授)が、知的生き方文庫で戦国時代が解る人物編で、明智光秀の謀反についての理由を、この思想のためであるとして書いています。
 まあ、私はビタ一文信用していませんが、信じている学者もいるとのことです。

月龍庵宗大さん
E-mail:
darkpent@wa2.so-net.ne.jp
HP:史傳書房

姓について。

 松平清康が藤原の系図を買い取ったという話は初めて聞きました。
 どういう学説のものなのか、興味があるので教えていただけませんでしょうか?

 ただ、私が知り得る限りの知識を総動員すると松平氏は寺社系の血統で、賀茂氏に繋がるという話も聞いたことがありますし、家康が藤原を名乗っていない(はずもし、名乗っているのならそれを教えてくださいm(__)m)ことと、もし、藤原姓を名乗っているのならなぜわざわざ「源姓へ変更したのか」について説明が必要だと思います。

 織田信長は藤原姓を名乗っていますし、近年の研究で藤原常真の系統ではないかと謂われているのですが、平姓を名乗っているのは、私も斯波氏への対抗上の問題ではないかと思いますが、確証はありません。(この辺は自分で信長を調べるあたりにつつこうかと思ってますけど(笑))

 どうも、話が逸れていて申しわけないのですが^^;A

 織田幕府というものの存在ですけど、信長のやり方を見ると、幕府ではなく織田政権であろうかと。

 征夷大将軍に就く必然性を信長は持たなかった様な気がします。
 逆に、明智光秀や前田玄以らが朝廷に働きかけた+朝廷の信長に対する御機嫌取り的な意味が【打診】に含まれている気がします。

 信長は神仏も合理的に信じていたので、やはり、信長政府or政権という形が一番信長らしい気がします^^
--------------------------
>国守(従5位以上の官位)は源平籐橘の出身でないとなれないのです。

 これは明らかに違うので、訂正してください。
 官位を叙されるのは賜姓された者(一族)の末裔でなければならないのであって、四姓でなければならない理由はありません。
 清原真人や在原真人の系統や紀氏などの一族であってもなれます。ただし、八草の姓の内、上二つ(真人・朝臣)でないと殿上できないという決まりはありますけど^^;A
 従5位の官位であっても「原則的に」誰でもなれます。当時「前例がない」ことと「(制度的に)なれない」ことは厳密に違うので、それはまずいですよ^^;A

 延喜式以後、律令が改正されていないはずなので。

招き猫さん

織田幕府はないと思う

織田幕府はやっぱり無かったと思います。
信長は本能寺の数日前に右大臣を辞めていたはずで、朝廷の官位などはあまり重要視していなかったと思います。
それに、何かの本(題名は忘れてしまった)によると、信長自身が天皇になろうとしていたと言うのも有ります。
これは極端だけれども信長ならば既存のものでなくもっと新しい体制を作ったと思います。

本願寺 顕顕さん
E-mail:
t-takeda@yha.att.ne.jp

織田幕府はありえるか

難しい話ですね〜
はじめまして〜

実は私も織田幕府はありえないと思うのですが、あえて、ここで、もし織田幕府を成り立たせるとしたら?
と、言う観点から一考させて頂きます。

なおここでのお話は、かなり無理が有るといえばあることも私自身理解した上でのお話ですので、あまり間に受けないでください。
突っ込まれても答えられません(笑)。

そうそう、信長による王権確立も難しいと思います。
原因は二つ、
一つは次世代のカリスマ性の問題、信忠はこの時期の一般的な常識人だったようだっていうこと。
もう一つは中国のような王朝交代の慣習がないことが理由です。

この話は置いときまして、問題の織田幕府ですが、気になったのはこの一言です。

「わしは織田殿を父とも思うておる」

足利義昭の入京当時涙ながらに義昭が信長にお礼を述べた時の一言です。
もちろん単に京都入りできたことを大袈裟なまでに感動した義昭のただの感謝の言葉と言うふうに取るのが普通ですし、まさか征夷大将軍就任と結びつける人もいないでしょうが、これがもしほんとに姻戚関係なりを結ぶ意味としてとったなら、織田の血に源氏の血が入ることになり、信長本人は無理としても源氏系織田氏の誕生がありえるかなっと言うような推論です。

まあ、根拠は確かでは有りませんのであまりつっこまないでください(笑)

磁石さん
E-mail:
beeky@tecnet.or.jp

幕府と天皇制

返事いただき、ありがとうございました。大変参考になりました。

ちなみに織田信長が幕府を開けなかったとすれば、その権力を次代以降に受け継ぐために、どのように考えていたのでしょうね。
封建制度に基づいて幕府を開いたのなら、鎌倉・室町などの先例にあわせることになり、非支配側も分かりやすいのだけど。
たとえば象徴天皇制という論理を軸に、官位をあたえるといった制度は後の豊臣家を見る限りあまり成功しないように感じます。やっぱり名より実の方が大事、かつ分かりやすいのではなかったのでしょうか?
まあ、そう考えるとやっぱり幕府を開く方向にあったのかなぁ(平氏でも開けるそうなので)と思う次第なのですが。

当時における幕府を開く以外の選択肢とその方法論(支配論)について、みなさんのご意見をお待ちしております。

総参謀長さん
E-mail:
wbs14648@mail.wbs.ne.jp

織田信長の組織維持

ハジメマシテデス。
織田信長天下統一後の組織維持についてですが、仮に統一したとして、幕府も天皇制もとらないでしょう。
彼は、古い秩序を根絶しようとしました。だから、官位を辞退し、足利義昭を放逐したのです。その信長が天下を取れば、どんな組織を作ったか?
それはおそらく、明治の神道国家的な自己神格化政策でしょう。また、彼が地盤を嫡子・信忠に残すかどうかは疑問だと思います。私の考えでは、信長は日本統一後は世界征服という一世一代の夢の実現に乗り出し、それも成功すれば、失意の内に死ぬかなんかだと思います。要するに彼の場合は、「生きている内に世界を舞台にして思い切り遊ぶ。自分が死んだら息子も何も知らない。後は勝手にやってろ。」と行った当たりが本音だったのではないでしょうか。
勝手なことを言いました。それでは失礼致します。あなかしこ、あなかしこ。

狩野勉三さん

秀頼の側室

 このコーナーに初めて投稿する者です。私が知りたいのは、豊臣秀吉の遺児の豊臣秀頼の側室の事についてです。秀頼には二人の子供がいたようですが、その二人とも側室との間の子だとか聞いてます。最も、正室である千姫(貍親父の孫娘にして三代将軍家光の姉)の年齢では無理だったでしょうけど(幼すぎます)。さて、秀頼の子を産んだ側室について知りたい事なのですが、彼女と秀頼との年齢差、彼女に対しての淀殿(秀頼の母)の態度及び感情、そしてその最期、以上の事です。私が彼女について存ずるところでは
 1.成田氏とよばれていた
 2.秀頼の腰元だった
 3.彼女に手をつけた当時の秀頼はローティーンだった
です。また、彼女との間に出来た二人の子については、
 1.男児・国松(ローティーンで出来た)は大阪城落城時に捕らえられて斬首された
 2.女子は出家させられ、尼となった
という次第です。歴史に於いてあまり重要ではない人物なのですが、少々気になるので投稿した次第です。もしよかったら情報お願いします。

ダイナモさん
E-mail:
shoji@nichigai.co.jp

秀頼の娘

初めまして。
秀頼の側室については、狩野勉三さんと同じことしか知りません。
ですが、秀頼の娘についてはもう少し付け足せるので書き込ませてもらいました。

>女子は出家させられ、尼となった

秀頼の娘(奈阿姫?)は鎌倉の東慶寺(縁切寺で有名)の住持となりました。
8歳で剃髪し、第二十代住持・天秀尼となり、1645年に37歳で亡くなりました。
千姫が母代わりとして後ろ盾になっていたようです。
縁切寺(女子の方から離縁できる)としての権能は家康のお墨付きだったそうです。

隆慶一郎「駆込寺蔭始末」は、この東慶寺を舞台にしたもので、興味をもたれたなら、御一読をお薦めします。

西山さん

秀頼の側室について

当方の先祖の記録の中に
・秀頼公女房「大坂落人妙慶」(貞亨3年死亡)

・秀頼公女房「宗和栄順」(万治3年5月4日死亡)
を妻にしている、というものがあります。

このあたりの事をご存知の方がいましたら情報をお願いします。

織田信長さん

古代(奈良時代)の日本史上最大の超霊能力者、役小角!

天武天皇時代、奈良、葛城山、大峰山、金剛山などを舞台に、史上最大の超霊能力者、役小角(えんのおづぬ)、一般には役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれる者が存在していた事を知っていますか?鬼を従え、神を呪縛する程の力を持っていながら、豊富な薬草の知知識とその不可思議な力で貧しい者たちを救済していたという人です。また、この人は、後の忍者の開祖ともいわれ、修験道の正当な開祖でもあります。記録としては、日本書紀や日本霊異記などに残っています。また小角は、天武時代に朝廷転覆を狙う者として無実の罪で伊豆大島に流されてしまったという可哀相な人です。そこで暗殺されそうになりましたが、相手の剣が例の力で折れてしまったということです。

農民のみ助さん

雑賀衆について教えて下さい。

どなたか雑賀衆の鈴木佐太夫の いみなを教えて下さい。

小野 雲慶さん
E-mail:
aac66840@pop02.odn.ne.jp

鈴木佐太夫

鈴木佐太夫のいみな(字がでない)は、たしか”重幸”だったと思います(ちなみに某社の「戦国武将207傑」では、彼が雑賀孫市だと言い切っている)。

いっとさん
E-mail:
ktanab81@alpha.shudo-u.ac.jp

コイツ誰?

はじめまして。さて挨拶もそこそこに少々マニアックな質問をば。どなたか、『七条兼仲』っていう戦国武将をご存知ないでしょうか。確か阿波あたりの武将で、三好義賢か十河一存・存保父子の家臣だったように思います。勇猛でその武勇が童歌か何かにもなったと聞いたことがあるように思います。『信長の野望』シリーズにも、確か『覇王伝』あたりまでは登場していたと思います。彼についての情報をできるだけ詳しく教えてください。

本願寺 顕顕さん
E-mail:
t-takeda@yha.att.ne.jp

七条兼仲について

実は詳しい内容は分からなかったのですが、七条兼仲は『信長の野望』以外でも『天下統一2』でも出てきてます。
従ってWin版なら『クロニクル』で簡単な経歴が有るかもしれません。
あるいは『相克〜』ならガイドブックに経歴が有るかも。
あまり役に立たない話で申し訳有りません。

マモルさん
E-mail:
nobunari@tky2.3web.ne.jp
HP:歴史IF城

Re:コイツ誰?

マモルで御座る!!

七条兼仲(?〜一五八二)阿波坂野郡七条城主。数々の武勇伝を持ち、無双の怪力といわれる伝説の男。中富川合戦で敗死。

なんだそうです。
どんな伝説なのかまでは知りません…。太閤記立志伝2にも出てましたね。

吉原雅宏さん

十字軍

十字軍がエルサレムに入場したときの事を知っているだろうか。 あの偽善者どもは、ユダヤ教とイスラム教の殆どを襲い略奪・暴行・殺戮をしでかした。 にもかかわらず、今でもキリスト教徒は十字軍を正義とし誇りとしている。 それは今日白人が世界経済・軍事の頂点にいるからだ。白人の権威が失墜すれば、 十字軍についての真実は見えてくるだろう。 話は、もとに戻るがキリスト教徒がたてた国を滅ぼしたイスラムの英雄サラディンは、 捕らえた兵士達にある程度の罰金を払わせ金が払えないものには、自分が替わりに払った。 キリスト教とイスラム教どちらに正義があるか一目瞭然であろう。 十字軍についての真実が白人に認識されねば、イスラム教徒とキリスト教の本当の和解は、 不可能だろう。

(一部掲載いたしかねる内容がありましたので編集させていただきました。管理人)

織田 信長さん
E-mail:
b9843204@ynu.ac.jp
HP:http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/3870

人を喰った伊達政宗

孔子の言う五徳に‘仁義礼智信‘と言うものがあります。孔子はその五つのことを大切にするように言ったのです。しかし、伊達政宗はそれを逆手にとり、こんな風に言っています。仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつら)いとなる。智に過ぐれば嘘(うそ)を吐く。信に過ぐれば損をする。さすが政宗ですね。人を喰ったことを言います。しかし、確かにその通りです。核心を突いています。最後に政宗の辞世の句を紹介します。’曇り無き 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く’

Mr、関羽さん

老いて、ますます、、、

皆さんのお力を、おかりしたくおもいます。
題でお解かりかと思いますが、聞きたいことは黄忠のことです。
このじじいの、若いころになにをしていたのかが、知りたいのです。
このじじいの歳からすれば、コウキンの乱に参加していてもおかしくなくその後どのように、いきていたのかということもしりません。
しっているのは、カンゲンに仕えてからの話です。

ふにゃさん
E-mail:
taizo629@lilac.ocn.ne.jp

黄忠さんのおはなし

Mr,関羽さんのご質問についてですが黄忠は韓玄に仕える前は劉表に命じられて、劉表の甥と長沙をまもっており、劉表が死んで荊州が曹操の支配下になると、長沙の太守に韓玄が任じられてきたためそのまま韓玄の配下になったそうです。でも劉表が荊州の刺史になったのは190年のことなので「演義」での歳が本当だとすると若い頃の黄忠はどこで何をしていたかまったくわかりません。しかし演義のとおりの年齢だとしたら若い頃の黄忠は、呂布や張飛よりずっと強かったでしょう。(笑)

磁石さん
E-mail:
beeky@tecnet.or.jp

こんな話を聞いたよ

たいした話じゃないんですけど。

諸葛亮の奥さんが黄夫人ということ。死後、墓標を黄忠にゆかりの定軍山につくってくれと頼んだこと。以上から黄氏は有力な豪族だったのでは?
という話を聞いたことがあります。
あと名前と字から、蜀漢の忠臣という連想をしている人もいたみたいです。

なんの本に書いてあったのか忘れてしまいすいません。

ふにゃさん
E-mail:
taizo629@lilac.ocn.ne.jp

Re.こんな話をきいたよ

磁石さんのいわれる黄夫人とはおそらく黄承彦の娘のことではないでしょうか?黄承彦は襄陽の名士で、黄忠は南陽の人なのでたぶん黄夫人と黄忠は姓は同じでも違う一族だとおもいます。もし違っていたらごめんなさい。

其の26

其の28