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其の25

其の27




歴史評定 のお話 其の26


真田 幸綱さん

幸村?の映画

今から十数年前の映画で、幸村と十勇士が、家康を暗殺しようとすると言った内容だったと思います。
当時、わたしは小さかった為、配役、内容、共覚えていません。
しかし、当時のわたしには鮮烈で、今でもいくつかのシーンが脳裏に焼き付いています。
何方か、分かる方は情報を下さい。宜しくお願いします。

子馬龍さん

真田さんの映画

 子馬龍でございます。初参陣です。よろしくお願いします。
レスが無かったので私の記憶が残っている範囲で書きます。
小学校頃TVで見たのを覚えているのですが当時から歴史好きだった私は、わくわくしながら見ました。フィクションではありますが、「魔界転生」と同じくらい感動したものです。
 この映画は松方弘樹が主演(幸村)で佐助にあおい輝彦(?だったと思います)小助に日野正平を起用した「真田幸村の陰謀」だと思います。
「8人の真田幸村」などを盛り込んでおり、大阪夏の陣で家康を討ち取るという結末でした。
 今年の12時間ドラマでは同じく松方弘樹主演で幸村ものをやってましたが、これはちょっとな〜という感じでした。架空の人物だけど才蔵って女なの〜!?とか、かなりの部分でショックを受けた作品でした。(そういえば昔、FCのRPG(幸村もの)で清海入道が女という設定があったと思い出しました)
 私めは小学校からの歴史好きでありまして、最近は明治維新にはまっているものでございます。こちらの評定でも明治維新や三国志の話をしたいと思いますのでよろしくお願いします。
 誰か初代?外務大臣、元海援隊士の陸奥宗光を題材あるいはよく出てくる小説知りませんか?司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」には出て来るんですけど竜馬暗殺後の彼の行動が知りたいのです。

本多サドさん

真田幸村の謀略

東映「真田幸村の謀略」です
監督は深作欣二。幸村=松方弘樹・家康=萬屋錦之介です。
「柳生一族の陰謀」
「真田...」
「赤穂城断絶」
「徳川一族の崩壊」と続く「東映」デタラメ時代劇の3作目です。
個人的には「柳生...」がお勧め。
徳川家光が実は柳生十兵衛に殺されていたという話です。

もどきさん

悲しい武将シリーズ(斉藤利三)

 悲しい武将シリーズ……未だ投稿してもいいのかな?

 − 斎藤利三 −

 元々稲葉一鉄の家臣でしたが、明智光秀と出会ったことにより、人生が大きく変化する事になります。
 光秀の人柄に惚れ込み主従の契りを結んだ(今風にいえば転職)のですが、それを黙って認めるほど『一鉄』の頭は柔らかくなく、主君信長に訴えたのです。
 一鉄は一徹者(頑固物)の語源となったと言われる人物であり、その頑固にはさしもの信長も一目置いていました。
 かくして信長から光秀に対して、利三を一鉄に返すようふれが出ますが、、
 この時の光秀は常と違って、言を左右にし、返還を認めなかったそうです。
 この一件により、光秀と利三の主従は『肝胆相照らす仲』となり、お互いが相手の期待に応えらるように、さらに奮起しました。
 利三は光秀の筆頭家老として、戦では常に先陣を受け持ち、外交でも光秀の右腕として働きました。
 ちなみに、四国の綺羅星と言われた『長宗我部元親』の妻は利三の親類です。
 しかし、この蜜月時代は長くは続きませんでした。
 度重なる信長の仕打ちに耐えかねた光秀が、ついに謀叛に踏み切るのです。
 光秀から叛意を告げられた利三は、積極的に賛成したと言われています。
 光秀と気持ちが通じあっていた利三も、信長の仕打ちに対して含むものがあったのでしょうか、、
 歴史の事実は残酷です。今では光秀主従の謀叛が失敗に終わったことは明らかです。
 彼らのその時の気持ちをたんそくするものは、ほとんど残っていません。
 わずかに光秀が残した俳句に、その気持ちが残されているばかりです。

 『ときはいま・・・・』

 秀吉との天目山決戦に破れ、武名がついえた利三ですが、徳川の治世で、彼の娘が名を後世に残す事となります。
三代将軍『徳川家光』の乳母    『春日局』として、、、

※天目山は最終決戦といった意味合いで使用してまっス。
 武田勝頼の最後の戦いじゃないっス。念のため

− fin −

マモルさん
E-mail:
nobunari@tky2.3web.ne.jp
HP:歴史If城

悲しい武将シリーズ・大内輝広

マモルで御座る!
さて、悲しい武将シリーズとは歴史上の人物で可哀相(涙)とか死ぬなぁ〜(怒)とかいう人中心にお涙頂戴系を趣旨としたもので御座る!(意味不明)

第六回・夢のまた夢

彼の名は大内四郎左衛門輝広。大内家二十五代大内義興に殺された隆広の子だ。
大内隆広は義興の弟で、家督争いに敗れ、終に殺されてしまった。これまた可哀相な仁なのだが、その子輝広はもっと悲しい。
父隆広死後、輝広は豊後大友氏を頼って亡命し、その庇護を受けていた。時は移り、義興は病死し、義隆も陶隆房(後の晴賢)に殺された。その陶も毛利に滅ぼされ、陶に擁立されていた大内義長(大友宗麟の弟・晴英)も自害したため、ここに大内家は滅亡してしまった。
これを輝広はどう思っていたのであろうか?御家再興のチャンスと思っていたのであろうか?
不遇な日々をおくる彼にとって、掴めぬ夢を追う事だけが生甲斐であったのかもしれない。
が、彼の御家再興のチャンスは程遠かった。

憂慮する彼にチャンスが来たのは永録十二年九月の事。
当時、大友と毛利は北九州の覇権を賭けて争っていた。天文年間より続く戦いは、取りつ取られつを繰り返し、永録十二年には吉川(元春)・小早川(隆景)らが篭もる立花城の攻防戦・多々良合戦を繰り返していた時期であった。しかし、その戦も膠着し、最早お互いに万策尽きた状態であった。
そこで、大友の将・吉岡宗歓は宗麟に進言した。内容はこうだ。毛利家本国撹乱である。つまり、大内輝広をして山口に入れ、叛乱をおこさせて国元を震撼させようと言うのである。
その策を得た宗麟は喜び、以前より将軍家から得ていた「大内相続認可状」を輝広に与え、大内再興を指示した。
輝広が喜んだのは確かであろう。彼は早速、息子武広を連れ、大友の援兵600人を率い、秋穂浦へと上陸したのである。一心に山口に向かう彼の軍勢は見る見る膨れ上がり、永録十二年十月十二日、高嶺城を奪回したのである。ここで彼は再興への一歩を踏み出した…はずであった。
山口を撹乱され、遠く尼子勝久までもが蜂起したため、元就は筑前を諦め、吉川、小早川に即時撤退を命令した。毛利勢は撤退し、立花城も開き、大友は筑前支配を強める事に成功した。
一方、山口にいた輝広はどうしたのであろうか?彼の軍勢は、十日もせぬうちに離散しはじめ、帰還してきた吉川、小早川の大軍を聞いて高嶺城から撤退し、豊後へと再び逃げようとしたが船を得られず。茶臼山の山城へと立て篭もった。
永録十二年十月二十五日、吉川の猛攻を前に…終に輝広は自刃した。

名家の誇りがそうさせたのか?或は、彼には野望があったのか?それは分からない。
ただ、掴めぬ夢を追い続けた悲しい男は、利用された事を知らずに散っていったのかもしれない。

二本松 義継さん

個人的にかわいそう。

板垣信方は、私はかわいそうだと思います。
戸石崩れってヤツデ死んでしまって、信玄のいたらなさの犠牲なのかもしれませんが。
久武親直は、極悪なんだけれど、生涯非難されて暮らしたというのは、かなりのものです。
明石全登は、大阪夏の陣で、作戦に失敗しあんまりいいイメージがありませんで、仲間内では、過大評価だとか言って、悪く言われてます。
ほかにもいましたらお願いします。

藤林長門守さん
E-mail:
jo6-life@nsknet.or.jp
HP:有限会社"云いたい放題"

《 鉄砲続編 》

 前回は、鉄弾(くろがねだま)=鉄製の弾丸は甲冑の耐弾性向上への対策と書きました。しかし"歴史群像グラフィック戦史シリーズ・戦略戦術事典2 日本戦国編"の88ページ"弾丸が語る戦国火縄銃の実際"には、そうではなくて練習用の弾丸だった可能性を示唆する記述があります。鉄弾は射撃による変形が少ないため何度も再使用できたであろうことを重視した見方です。また北条氏の山中城から出土した弾丸計188個のうち鉄弾は16発、その比率は8.5%になりますので、再使用を前提にした練習弾なら元々数が少なかったと見ることもできます。とはいえ鉄ですから錆びて崩れて出土しなかっただけかも知れません。なお出土した弾丸のうち147個78.2%を占めるのは銅鉛合金製の弾丸であり、残る25個13.3%が鉛弾だったそうです。
 同じく北条氏の権現山城では、古文書によると準備された弾丸計5,587発のうち鉄弾は2,250発、その比率は40.3%に上ります。また鉄弾の数量は"小鉄炮50"に併記されており、鉄弾は小鉄砲用だったことをうかがわせます。
因みに通常の鉄砲は"鉄炮15丁","玉3200"と別記されています。しかし不明なのは"合薬××放"とあるものの正体であり、小鉄炮に併記して"1200放",鉄炮に併記して"1500放"とあります。これらの他に"合薬9斤"という表記もあってややこしい。読みが「あいぐすり」ならば重量を射撃回数に換算した表現と取ることができますが、もし「ごうぐすり」だったなら既製品の早盒(はやごう)と解釈でき、その場合、それぞれ弾丸の数に加算しなければなりません。
 そこで早盒だった場合の合計を( )で括って1挺当たりの弾丸の数を見ると、鉄砲は213.3(313.3)発,小鉄砲は45(69)発になりますので、やはり再使用を前提にした練習弾だった可能性が高くなります。ただし鉄弾の数は"くろ金玉1350"と"同玉900"と分けて表記してあり、単に後から付け足したのか?小鉄砲用と鉄砲用を分けたのか?それとも鉄弾は1,350個だけで"同玉"とは小鉄砲用の実弾=鉛弾(定説では...)だったのか?微妙な部分です。そうなると"玉3200"も、鉄砲用の実弾だけだったとは必ずしも断言できなくなります。いや全くややこしい。

 では北条氏で鉄砲,小鉄砲と呼ばれていたのはどんな銃だったのでしょうか?。鉄砲は6匁筒ないし中筒(なかづつ)と呼ばれた銃で、口径16mmで弾丸の重さは6匁=約22.5g。小鉄砲は細筒と呼ばれた銃で、口径13mmで弾丸の重さは3匁5分=約13gと思われます。当時、最も多く使用された銃が6匁筒だったそうですが、北条氏は細筒の比率が高いようです。これは北条氏が鉄砲"後進国"だったので商人に足元を見られて不良在庫だった細筒をつかまされたか?、それとも信長や秀吉の内密な指示によって商人が言葉巧みに細筒を買うように仕向けたか?、あるいは予算が乏しかったので"先進国"が6匁筒に更新したため余剰になって売りに出したか下取りさせた細筒をやむなく買い入れたか?、開戦時期を見誤り取りあえず銃手を養成するつもりで細筒を重点的に買い入れたか?どうだったのでしょうか。昔から変わらず"技術情報と戦略情報は重要不可欠"という実例であり、現代も兵器の輸出入に於いて似たようなことが行われています。

 鉄砲は明や朝鮮では"鳥銃"と呼ばれていましたが、日本の鉄砲のルーツは東南アジアで製造された鳥打ち銃にあります。鳥打ち銃だからこそ口径が比較的小さく、したがって反動も比較的小さく、角度を付けて撃ち上げる射撃姿勢を前提に設計されていたため、銃床が頬付け型だった訳です。
この頃のヨーロッパの軍用マスケット銃は口径0.75インチ=19mmで弾丸の重さは推定で38g弱に上り、その威力は6匁筒より1回り大きい。銃床は肩付け型で、射撃の際は銃身をカメラの1脚ような支持脚で支えたそうです。つまりヨーロッパ人は準備が整い次第アジアを植民地にするつもりでしたから、最新最強の火器をアジア人に譲ったり製造法を教えたりしなかったと云うことです。
 ただ面白いのは、日本の鉄砲鍛冶が"頬付け型"というデザインの大枠を最後まで変えないで性能面の改良を図っていったことです。遂には200匁玉(弾丸重量750g)を発射する口径50mm弱の大筒まで製造したけれども、これの銃床もデザインとしては銃床が頬付け型でした。実際に頬付けの姿勢で射撃できたのは100匁筒辺りまでだったようですが、当然、通常の撃ち方では反動を吸収できないため、左足を軸足にして身体を右へ半回転させる特殊な撃ち方が考案されました。200匁筒となればそれさえも無理なため何かに固定して撃つか、さもなければ立て膝で腰だめの姿勢で撃って反動を丸めた背中で後へ転がって吸収する撃ち方が工夫されたそうです。「日本人は"慣れと工夫と要領"に問題解決の答えを求める」というのは私の持論ですが、バズーカなど対戦車ロケット・ランチャーや無反動砲が出現するまで口径50mmに及ぶ火砲を人間が抱えて撃ったことはなく、その唯一の例外が戦国日本の鉄砲名人たちであり、他民族なら挑戦しようとさえ思わないことを彼らは"慣れと工夫"で克服した訳です。
 このような極端な例を上げなくても、平均的な銃手でさえ連射によって銃身の内側に煤が溜まり弾丸が入りづらくなってきたら段々と小さめの弾丸に替えてゆくなどの細かい工夫や、後輩を教える際にも"引き金は、月夜に草の先から露が滴る如く、やんわりと引け"と詩的な言葉で本質を伝えようとすることなど、当然のように実行しておりました。この辺りの感覚は実に日本的であり、現代の私たちと全く変わりません。

 鉄砲を顧みて残念に感じるのは、日本人が最後まで肩付け型の銃床を採用しなかったことです。30匁筒以上の大筒では逆に銃手の肩を痛めますが、10匁筒(マスケット銃と同じ口径)位までなら肩付け型の銃床の方が確実に命中精度が高くなったはずあり、なぜなら頬付け型よりも銃を安定させやすいためです。しかも銃床という1つの部品の形を変えるだけですから、製造工程さえ変える必要がないし旧型を新型に改造するのも簡単です。また精度上げるためには銃身を長くするだけでなく、支持脚に載せれば尚のこと効果的です。銃身の重さを支持脚が受け持つため、銃手は照準し反動を受け止めるだけで良いからです。もっとも銃が重くなれば銃手の機動性を損なうデメリットもあり、銃身の長さや支持脚の有無を決めるには、戦術や平均的な足軽の体力をも考慮する必要があります。それらの意味でマスケット銃は合理性の見本でしたが、なぜ肩付け型の銃床という画期的ではあっても単純なアイディアを思い付けなかったのでしょうか?。

 そこで私たち日本人が自覚しなければならないのは、自分たちが発明・発見の素質に劣ることではなくて、自ら自分や仲間のオリジナリティーを殺してしまいがちな傾向があることです。生半可に器用で智恵が回るばっかりに、不便な道具でも不完全な組織でも"慣れ"て"工夫"がつけば何とか使いこなしてしまえる。一旦、使いこなす方法が定まったら、人間関係を大事にしすぎる余り改善提案すら自制してしまう。それが裏目に出て、不便と分かっている道具でも不完全と分かっている組織でも"慣れと工夫と要領"で克服することが奨励され、戦争に負けるか社会が破綻するまで不便な道具や不完全な組織が改められません。祖国に国際的な発明・発見をもたらした日本人のほとんどは、故国に居づらくて海外で研究を続けたり母国に居ても周囲から白い眼で見られることに耐えなければなりませんでした。これでは誰かの頭に優れたアイディアが閃いても、試作品をつくるどころか実験にすら取りかかれないでしょう。日本で頬付け式の銃が肩付け式に進化しなかった原因はそこにあり、ゴム動力に着目しライト兄弟よりも僅かに先行していた二宮忠八が人類初の動力飛行機を断念しなければならなかった原因もそこにあります。日本人は決してオリジナリティーに劣る訳でなく、それを自ら潰しているだけなのです。

ナポさん
E-mail:
ibusuki@mnet.or.jp

あつもりを持っていませんか?

歴史が大好きな中学生です。信長が好きな「あつもり」はほとんど

 『人生五十年 下天の内を比ぶれば...

と言うところしか出てきません。僕は一般的に知られているところより後も知りたいのですが...
 誰か知っている人はいませんか?又,本などは出ているのですか?
 もし本が出ているのであれば,その題名,出版社などを教えていただけませんか?
 御願いします。

TSU(仮名)さん
E-mail:
tsukuda@mvi.biglobe.ne.jp

敦盛の例の部分の前後について

手元にあった徳間書店刊の桑原譲太郎氏の歴史小説、炎の人信長第1巻<自立編>に全部ではありませんがよく知られている部分の前後が載ってたので紹介します。それによると敦盛の例の部分の前後は

−思えば此の世は常の栖(すみか)に非ず。草葉に置く白露、水に宿る月よりも猶怪し、金谷に花を詠みしつつ栄華は先立ちて、無常の風に誘わるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先立て、有為の雲に隠れり。
人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け滅せぬ物の有る可きか。是を菩提の種と思い定めざらんは口惜かりき次第ぞと思い定め、急ぎ都に御上りつつ、敦盛の首を見れば、物憂きに獄門より盗み取り、我宿に帰り、御僧を供養し……

だそうです。題材が平家物語の時代なんで無常観に満ちあふれてますね。
これ以上は図書館などにいって調べれば芸術の分野にあるかもしれません。
でも信長は例の部分以外は舞わなかったそうなので、敦盛そのものより例のフレーズが気にいってたのではないでしょうか。

TSU(仮名)


ノンさん
E-mail:
non@riddle.co.jp

どなたかご存知ですか

歴史小説を最近読み始めました。疑問がひとつあります。
学校で真面目に勉強しなかったせいでしょう。
疑問とは、次の事です。
大名の名前に、なんとかの守というのが付いています。
例えば、羽柴筑前守。この、なんとかの守というのはどういう基準で、誰が付けるのでしょう。必ずしもその大名の領地とは一致していないケースが多いと思うのですが。
周りの人に聞いてもわからないのです。
どなたか、日本史に詳しい方、教えて頂けませんか?

暴れん坊張飛さん
E-mail:
isin@din.or.jp

ニックネームみたいなものです。

ノンさんはじめまして。これは官位でもありますし、当時〜〜守というのが流行ったようでとくに自分の領地とは関係ない場合が多いです。
しかし自分の領地にちなんだものもあるようです。

市松さん

守・介の付け方

その疑問は私も持った事があります。
なんとかの守とかなんとかの介と名乗る場合大きく分けて二つのケースがあります。一つは朝廷にお願いして正式に官位を任命してもらう場合と、もう一つは自分で勝手に名乗る場合です。
大抵の場合、自分で勝手に名乗っている場合が多く、(朝廷に許可をもらおうとすると賄賂、それもかなりの額を要求される為)空いているものを適当に名乗る場合がほとんどです。
無論、朝廷に許可をもらった方が強力な効果(人心上、政治上ではない)があります。その例として、武田信玄公は、上杉謙信と川中島で戦う一方、朝廷に呼びかけて、信濃守に任命されています。これにより、信玄は信濃を守る理由ができ、謙信は朝廷に対する逆賊という事になる訳です。
羽柴筑前守に付いては九州を制覇する上に役立つと考え織田信長が施した事前策だったのではないでしょうか。
市松でした。

TSU(仮名)さん
E-mail:
tsukuda@mvi.biglobe.ne.jp

名前について

江戸時代以前の士分以上特に大名クラスの人物には、姓、苗字、忌み名、字(あざな)があります。
姓は俗に源平藤橘と呼ばれるように、源氏、平氏、藤原氏、橘氏の四つです。
例外として、豊臣秀吉が勅許をもってもらった豊臣氏がありますがご存じの通り2代しか続いていません。
苗字は戦国時代で言えば織田氏、武田氏、北条氏などの氏のことです。
現在では区別しないですが、本来は姓と苗字は別物です。
室町以前の支配階級はだいたい奈良時代や平安時代に、朝廷から地方に派遣された下級貴族やその家来の子孫が多いので、地方に土着した地名をそのまま苗字としたものが多いです。
佐竹氏や最上氏、足利氏などがそうです。これは現代でも地方の名家などでは分家のことを住んでる地名で区別しますね。
また、下克上で成り上がった人物の姓や苗字は、勝手に先祖の経歴を詐称したり、その地方の名家の苗字を主君などの許可を得て、名乗ったりします。
(名跡を継ぐなどと言いますね)このパターンでは徳川家康や斉藤道三などが有名です。
また、羽柴秀吉のように自分で勝手につけた苗字などもあります。

名前の方は身分が高い人物にはたいてい忌み名と字があります。
忌み名は本名で武士などでは普通は元服の際につけられます。信長、家康、秀吉等のことです。ただ、日本というか東洋では言霊思想と言うものがあって、本名は目上のものしか呼んではいけないという原則があります。で同僚や部下が呼ぶときに使う名前が字です。いつ頃からかは不勉強で知りませんが、武家社会では、字に越前守とか、筑前守とかの律令制度の官職名(特に地方官や兵部省、近衛省が官職が多い)をつけることが多いです。何とか兵衛や何とか衛門とかも元はこの官職名です。これらは、大名家などの家中では、その家中のなかでの役職などに応じて主君から認められたりして名乗る場合が多いようです。また(詐称のものを含む)先祖の役職名を名乗ったりすることも多いです。守護大名の子孫以外の場合や地方大名の家来クラスはだいたいがこのパターンでしょう。信長の弾正忠などもこのたぐいです。これらは、勝手に名乗ったもので、朝廷から任命されたものではありません。そのため支配している地方とは全く無縁の地方官でも名乗ります。
ただ戦国時代以降の大名クラスの人物では、自分の権威をつけるために、金銭などを朝廷に献上してもらったものなどもあります。羽柴筑前守秀吉や是任(明智)日向守光秀は、信長が朝廷に奏請して受領したものです。ですから、時代劇や小説などで信長が秀吉を筑前などと呼ぶのは本来はおかしいのですが、信長の性格ならそんなことにはこだわらないかもしれませんね。
名前については本が1冊かけるぐらい奥が深いので、自分で本を読んで調べたり、するのも楽しいのではないでしょうか。私もまだまだ不勉強でこれぐらいしかいえませんが、もっと詳しく知っている方は是非教えて下さい。
長くなりましたがこのへんで...

TSU(仮名)

山口某さん

〜守について

初めまして初投稿の山口某というものです。
さて〜守というのは朝廷の官職のことです。(多分)
平安時代などは実際にその国に行っていましたが、戦国時代になると実際にいくことはなかったようです。例えば、毛利陸奥守元就や本多佐渡守正信は陸奥や佐渡に行ったことすらありません。しかも当時は、朝廷の力が落ちていたので勝手に名乗られることもありました。
ちなみに、〜衛門なども官職からきているものです。
まだ高1なので何か間違いがあったら教えてください。

ノンさん
E-mail:
non@riddle.co.jp

ありがとうございました

暴れん坊張飛さん、市松さん、TSUさん、山口某さん。
私の疑問を解いていただきまして、ありがとうございました。
これでひとつスッキリしました。
名前ひとつでも、あれこれと歴史は面白いものですね。
これからも本ではなかなか読み取れない歴史の襞をこのサイトで皆様に教えてもらおうと思います。
管理人の方にもお礼します。がんばってください。
皆さん、ありがとうございました。

月影龍樹さん
E-mail:
darkpent@wa2.so-net.ne.jp
HP:史傳書房

官位名(長文注意)

 官位名についての記載があったので、遅いかもしれませんが、嘴をはさんでみようかという気になりました(^^;

 戦国時代の官位については、「必ず当主から与えられるものである」ということです。

 これは、大名が一つの国家であったということな訳で、朝廷や幕府の無認可では有りますが、当主がその家臣統制の為に、作り出した物であると認知されています。

 例えば、馬場美濃守の場合、原美濃守に肖るようにと武田入道信玄によって名乗っています。

 また、この官位には国司名と受領名(ずりょうな)があります。
 受領名とはその地位(の高さ)だけを拝領する場合で、領国の場合は知行名ともいいます。これらは朝廷から正式認可されたもので、羽柴筑前守は正式な受領名である(これは織田信長が九州征討を見越して丹羽長秀・明智光秀に惟任などの姓を下賜させたことと関係があると思います。明智光秀はこの際に日向守に補任されています)。

 また、これらが、代々継承され、分流や他氏流との区別化した物も有ります。武衛家斯波氏とか。代々継承した官位名はやはりその当主によって家督の継承を認知されてから襲名しています。父子で同名の官位名を名乗っているのが多いのはこの理由からです。

 さらに、江戸時代になるとこれが通常の名前のように諱を持たず、「右近」や「左衛門」などといった通り名に変化していきます。

 織田信長の名前では

 織田三郎二郎上野介藤原信長

 「織田」は名字、「三郎」は信長の系統の始祖が嫡三男として分家したことを意味し、「二郎」は次男(信長は嫡次子で、兄に庶長子信広がいます)を意味します。「上野介」は恐らく受領名であるとおもいます(後に朝廷より尾張守を拝領しています)。「藤原」は姓で、「信長」が諱です。この他に幼名があり、これが有名な「吉法師」ですね。

 また、父子や一族などで同じ字を使うことを通字といい、織田氏や武田氏では「信」の字が通字ですし、鎌倉公方家足利氏では「氏」、伊達氏では「宗」、足利将軍家では「義」が通字になっています。

 取り急ぎこの辺で……(^^;

本願寺けんけんさん
E-mail:
t-takeda@yha.att.ne.jp

今更ですけど

高校時代に勉強したことのうる覚えも含めてのお話ですが、守、介は律令制時代の四等官制の名残です。
もともと、長官(かみ)次官(介)判官(じょう)主典(さかん)
が基本型で、その役職に応じて漢字が変わります。
(詳しくは高校の教科書などを見てくださいね)
守は国の長官、つまり国主、介はその次官となるので、感じとしては守が守護大名、介が守護代というところでしょうか。
また守の中にも格式(?)のような物が有り、たとえば播磨守などは一般の領主クラスでは拝領されず、源氏直系もしくは平氏直系が継承してたりします。
戦国時代では確かに形骸化してはいましたが、それでもある程度の意味は有ったようです。

但し、織田信長のように勝手に名乗ってしまったりするのもいます。
(はじめに名乗っていた上総介というのは自称だそうです)

記憶をたどるとこんなとこですが、いかがでしょうか?
補足修正が有るようでしたら、どうぞお願いします。

よっちゃんさん

ナポレオンの没落についての私見

 ナポレオンが没落した原因は色々と言われておりますが、ナポレオン自身が言っている通り、スペイン動乱が発端となったとみる向きが多いようです。
しかし、私が一番のターニングポイントと考えているのは、やはり終身執政→皇帝に上りつめて、自ら革命を否定してしまったことだと見ています。
 大音楽家ベートーベンが自ら彼の為に作曲した交響曲を捧げようとした時、ナポレオンが皇帝を名乗ったと聞き、ため息をもらして題名を「英雄」に変えて、彼の没落したイメージを曲の中に盛り込んだというエピソードは、たとえ作り話だとしても、この時点で彼の没落を予見した人は多かったのではないかと思います。彼にとって不幸だったのは、廻りに優秀な軍人は数多くいたが、権力づくりの優秀なブレーンがいなかったことではないでしょうか?
たとえ一人でも、モンゴルの耶律楚材のような優れた内政官が彼の頭脳となっており、讒言や目先の利益に惑わされずに強固な精神力を持ち合わせていたならば、ベルナドットのように現在でもその血筋が皇室として残っていたかも知れません。彼自身、ナポレオン法典やレジョン・ド・ヌール勲章の設立など、歴史上意味のある内政基盤を築いた功績は否定しませんが、結局行き着くところは、天才的軍人であっても、天才的統治者とは程遠かったということでしょうか。この面においては織田信長もある意味同じ部分を持ちあわせていたのは、覇者としての宿命なのかも知れませんね。

PS 歴史評定の内容がどうもかたよっているみたいですので、ちょっとマイナーな意見を載せてもらいました。しかし、ナポレオン好きな人間は少なからずおられるのではないかと思いましたので、これをきっかけに色々な方の色々な時代の意見を拝見させて下さい。では

TYamさん
E-mail:
j95a1080@human.waseda.ac.jp

ナポレオンの没落についての私見について

ナポレオンが没落した根本的な原因はやはり何といっても人民(国民)を敵に回したってことでしょう。それを決定的に表に出したのがナポレオンの戴冠なんだと思う。
 フランス革命期の時代背景は、「人民(下位貴族含む)vs王侯」という形が見て取れる。フランス革命は「王侯の支配を脱する人民の戦い」であって、ナポレオンはそのリーダーとして人民に受け入れられていた。ナポレオン軍の圧倒的な強さは、数的にも圧倒的に多い人民の後ろ盾あってこそだった。ところが、権力の罠とでも言うべきか、ナポレオンはそのことを忘れてあろうことか皇帝になってしまった。皇帝は王侯の最たるもの、つまり人民が戦ってきた相手になってしまった。カエサルに言わせれば「ナポレオンよ、おまえもか」というところだろう。ヴェートーヴェンが彼の没落を曲の中に盛り込んだのは、予見してのことではなく、そうなるように願ってのことだったのじゃなかろうか。
 何より、ナポレオンがロシア遠征後、ライプツィッヒで敗れた戦いのことは、「諸国民戦争」と呼ばれる。この「諸」は、ナポレオンはこの時点でフランス国民を含め人民の支持を完全に失っていたという、何よりの証拠だろう。
 ちなみに、これと似たことはナポレオンをさかのぼること2000年の中国で起こってる。かの有名な陳勝・呉広の乱だ。賦役農民だった陳勝ははじめ反秦農民反乱軍のリーダーとして人民の国を作ろうとしたが、結局は自ら王を名乗り慢心した結果、部下に殺されて乱は失敗する。そしてその後は、人民は無視され、王侯の争いに絞られていく。このあたりもウィーン体制と共通するものがある。

其の25

其の27